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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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昭和9年の火災で焼亡した金戒光明寺の本堂、その再建の設計者・天沼俊一は……

洛東




金戒光明寺


 昭和9年4月17日の火災

 岡崎にある金戒光明寺。
 「こんかいこうみょうじ」という読みが難しいせいか、地元では「黒谷さん」で通っている寺院。
 幕末には、京都守護職の会津藩が陣を置いたので、維新の史跡という色合いも帯びています。

 金戒光明寺
  金戒光明寺 高麗門

 会津藩がいた頃の金戒光明寺が登場する「花洛名勝図会」(1864年)。
 本堂は、このように描かれています。

 「花洛名勝図」より「黒谷金戒光明寺」
 「花洛名勝図会」より「黒谷金戒光明寺」(部分)

 山門をくぐって石段を登ると、南向きに本堂が立っています。法然上人の御像を安置されています。
 桁行(けたゆき、横方向)が七間もある大きなお堂です。

 この本堂ですが、昭和9年(1934)4月17日、火災によって焼失してしまったのです。方丈など他の建物も焼けました。
 寺院の堂宇は巨大な木造建築のため、火災に会うことは避けられない宿命です。金戒光明寺でも、早急にその再建が着手されました。
 このため、大方丈はすぐに再建され、本堂(御影堂)も昭和19年(1944)に竣工しました。

 資料を見ると、大方丈の設計者は建築家の武田五一、本堂の設計者は建築史家の天沼俊一となっています。
 二人とも、京都帝国大学の教授だった人物です。

 ところが、過日、ある本をめくっていると、私を困惑させる記述が出てきたのでした。


 天沼博士と金戒光明寺

 天沼俊一の著書に、『日本古建築行脚』という本があります。昭和17年(1942)に臼井書房から刊行された書物。全国の建築を見て歩いた随筆的な記録集です。

 臼井(うすい)書房については、こちらをどうぞ! ⇒ <臼井書房の書物たち>

 この本に、「黒谷の鐘楼と阿弥陀堂」という一章があり、金戒光明寺について記されています(引用文は適宜改行しました)。

 京都市左京区黒谷町に黒谷といふ寺がある。本名紫雲山金戒光明寺だが、お春日さんやお多賀さんの様に、くろだにさんといってゐる様である。この方が早判りがする。
 電車の停留場に「岡崎通黒谷前」といふのがある位である。人若[も]し京都の人に「金戒光明寺へはどう行きますか」と尋ねたならば、其[その]きかれた人が余程の韻照級でない限り、怪訝な顔をして口をあけるであらう。(162ページ)


 エッセイのように軽い調子で始まる文章。
 余談ですが、「韻照級」って何のことだか分かりましたか?
 辞書を引いても全然分からず、キーボードで文字を打って初めて気付きました。

 インテリ級!

 現在古建築といふべきは阿弥陀堂と鐘楼とで、他にさう古いものはない。
 寺にとって何より大切な本堂は「寛政年間の再建にして桁行十六間半、梁間十五間半の大堂宇なり」とある。写真でみると桁行七間梁間七間単層入母屋造本瓦葺の大建築であるが、これが昭和九年四月十七日不慮の火災で焼失、目下再建中である。 


 寛政年間(1789-1801年)に建てられた本堂。桁行も梁間も七間ある大建築で、これが「花洛名勝図会」に描かれたお堂ですね。
 天沼博士の皮肉なところは、何かの案内文に「桁行十六間半、梁間十五間半」と、実寸(1間は約1.8m)で案内した記載に対して、“寺院建築の桁行、梁間は、柱の間の数で数えるんだ”と眉をひそめているわけです。

 この文章を書いているのは、昭和10年代の半ばらしく、燃えた本堂が「目下再建中」と記されています。

 筆者は大正七年から昭和十二年迄、其間にまる三年ばかりぬけたから、ざっと十七年間吉田山麓の小さな家に仮寓し、其間毎日の様に膝を容るるの安じ易きを審にしてゐたが、真如堂にせよ黒谷の本堂にせよ、比較的新しい建築なので左まで興味を惹かなかったため、焼失前唯一度あの本堂の傍を通った時、歩きながら其外側を瞥見しただけでほとんど記憶はない。
 あの辺に火事のあったことも薄薄知ってはゐたが、其焼けたのが黒谷の本堂である事を知ったのは、翌日の新聞紙によってであった。

 例ひ其建築が江戸中期のものであるにせよ、洵[まこと]に惜しい事をしたもので、同情にはたへなかったが、ただ心のうちでさう思ってゐただけで、寺を知らなかったから、別段同情心を表現する方法はとらなかった。
 併[しか]し寺としては焼けた儘[まま]ではおけないから、早速復興すべく万端の用意をした。先[ま]づ第一期工事として大方丈からはじめることになり、設計監督等万端を T博士へ依頼されたさうで、工事は着着進行し、大方丈から座敷へかけて立派に竣工をした。


 天沼博士は正直にも、本堂は江戸中期の「比較的新しい建築」なので興味がなかった、と言っています。
 そして、復興事業について、第一期工事は大方丈の再建から始められ、設計・監督は「T博士」に依頼された、と書いています。このT博士が、京都帝大の同僚だった武田五一教授でした。

 其後第二期工事として本堂が始まった。
 何でも昭和十一年の秋頃から設計にかかったらしく、翌十二年の夏か秋頃そろそろ軌道に乗りだし、幸なことに目下屋根瓦を葺く迄になったのは、寺のために洵に慶賀すべき次第であるが、私もどの様な本堂が再建されるかと、時折拝観に出かけた序[ついで]に、K技師から黒谷では阿弥陀堂と鐘楼が古いときかされ、みると成程さう思はれたので、数図を掲げて解説をしておく事にした。


 第二期として本堂の工事が、昭和11年(1936)秋頃から設計され、いまは「屋根瓦を葺く迄になった」と記しています。
 そして自分は、時折り拝観に出かけた時に、古い阿弥陀堂や鐘楼を見たと言っているのです。

 文章全体が、なんとも他人事ですね。
 それもそのはず、この復興は当時は帝大を退官した武田五一に依頼された仕事なのですから。


 実作者としての天沼俊一

 しかし、最初に述べたように、いま、この本堂は「天沼俊一設計」とされています。
 おかしいですね、設計している本人が、こんな文章を書くわけないですよね。

 私は心配になってきて、また図書館に行って、天沼香『ある「大正」の精神-建築史家天沼俊一の思想と生活-』をはじめ、いくつかの文献を見ましたけれど、やはり金戒光明寺の本堂は天沼設計とありました。

 そうすると……

 どうも、このようなことなのでしょう。
 最初はおそらく武田五一が仕事に掛ったのですが、武田は昭和13年(1938)2月に亡くなってしまいます。天沼の先の文では「十二年の夏か秋頃」という記載がありますから、この随筆が書かれた後、武田は没したのでしょう。
 そして、その仕事の続きは、ちょくちょく現場を見に行っていた天沼に回ってきた……

 天沼俊一は、建築史学の専門家ですが、実作も手掛けていました。
 高野山金堂(1927年)、本能寺本堂(1928年)、東福寺本堂(1934年)、戦災で焼失した四天王寺五重塔(1940年)など、実績は十分です。
 
 詳しくは、こちら! ⇒ <天沼俊一が設計した本能寺本堂は、登録文化財になった近代和風建築>

 なにしろ建築史の泰斗で、細部様式には一際うるさい(失礼!)先生ですから、細かい部分まで行き届いた設計をするのでした。


 細部意匠に凝った復古建築

 金戒光明寺

 金戒光明寺

 桁行七間、梁間七間、中央に向拝を付けるというフォルムは、江戸時代のものと変わっておらず、このあたりはすでに武田五一が設計していたのではないでしょうか。
 ただ、細かいところは、やはり天沼だな、と思わせる点が多いのです。

 金戒光明寺

 軒を見上げたところ。
 いわゆる二軒繁垂木(ふたのきしげたるき)という形。垂木が上下2段になっているものですが、上が □ 、下が ○ になっているでしょう。
 古いスタイルで、そうそうお目に掛かるものではありません。それでも、京都や奈良の寺院では時折見られ、平等院鳳凰堂などはこれですね。
 江戸時代になって、こんな面倒なことをする建物はありませんが、天沼博士は古式ゆかしいスタイルを復活させたわけです。

 軒の下を見てみると……

 金戒光明寺

 蟇股(かえるまた)がありますが、こちらも……

 金戒光明寺
  正面の蟇股

 金戒光明寺
  側面の蟇股

 こちらも、古代から中世っぽい意匠ですが、正面と側面で異なるデザインにしています。
 カエルの足のラインも比較的なだらかで、中央にはクローバー状の植物意匠。さらにいくつかの猪目(いのめ、ハート形模様)を付けています。
 古そうな形と言いながらも、結構近代的なデザインです。


 屋根を支える工夫も

 金戒光明寺
  花頭窓

 花頭窓も、垂直のラインが真っ直ぐで、「∩」のようになっています。これも古風なイメージです。時代が新しくなると、「A」ラインと申しますか、足元が広がってくるのですね。

 金戒光明寺

 このお堂は、かなり巨大ですので、屋根の四隅の出も大きくなっています。
 屋根は瓦を葺いていて重いですから、年月が経つと、ずるっと垂れ落ちてくる危険があります。そのため、江戸時代や明治時代には、古建築の屋根を支えるために、四隅に控柱を立てることがよくありました。

 三十三間堂などの例については、こちら! ⇒ <三十三間堂の謎の石>

 ところが、後付けの柱は格好悪いですよね。
 そこで、天沼博士は、最初から柱を立てておくことにしたのです。

 金戒光明寺

 金戒光明寺

 あらかじめ、デザインの中にこれを組み込んでいるわけです。
 『ある「大正」の精神』には、「建築を端正に保つために支柱を入れるというのも又、彼のセオリーの一つであった」と記されており、いつまでも建物を美しく見せようという天沼の配慮がにじみ出ている部分と言えます。

 金戒光明寺
 柱の上と下に蓮華様の意匠を施している

 天沼自身は、新しい時代の建物には余り関心がなかったようですけれど、私達はそういった建物にも興味を抱いて見学してしていきたいと思います。




 金戒光明寺

 所在 京都市左京区黒谷町
 拝観 境内自由
 交通 市バス「岡崎道」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 「花洛名勝図会」1864年
 天沼俊一『日本古建築行脚』臼井書房、1942年
 天沼 香『ある「大正」の精神』吉川弘文館、1982年


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ありがとございます

 いつも、ご愛読ありがとうございます。
 本日も、文鎮の話題をアップしますので、ぜひご覧ください。

 毎回話題には苦労していますが、引き続きお読みいただければ嬉しいです。
 これからも、ご愛読お願い申し上げます。

    船越幹央

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