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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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昔の人は、誕生日をどう祝っていた? - ある歌舞伎俳優の日記から -

人物




絵看板


 突然ですが、日記と誕生日の話題です

 少し先に、ある人物の話をする機会があって、最近そのことを考える時間が多くなっています。

 その人物の名は、市川箱登羅。

 いちかわ・はことら。
 明治半ばから昭和初期に活躍した歌舞伎俳優です。
 「活躍した」と書きましたが、華々しいスターではなく、キラリと光る通好みの脇役、と言った方がいい人。昭和19年(1944)に亡くなっていますから、もう没後71年で、いまでは誰も知らないでしょう。

  市川箱登羅招き看板

 私は、もともとこの役者に興味があったわけではありません。
 最近仕事の関係で、初代中村鴈治郎にかかわることになったのですが、彼が鴈治郎一座の番頭格の役者だったことから、ちょっと気になり始めました。

 箱登羅は、40余年にわたる克明な日記を残しています。「市川箱登羅日記」で、その筋ではちょっと知られた存在です。長年、歌舞伎学会の会誌「歌舞伎 研究と批評」に、菊池明氏によって翻刻が続けられています。
 翻刻の存在は以前から知っていたのですが、読んだことはありませんでした。それを今回読んでみようという気になったわけです。

  「歌舞伎」 「歌舞伎 研究と批評」

 箱登羅は、慶応3年(1867)に浅草田町で生まれた“江戸っ子”ですが、明治22年(1889)、大阪にやってきて、のち初代鴈治郎の芝居に出演します。大スター鴈治郎とは7歳ほど年下ですが、そのもとで舞台の表裏で重要な役回りをしていて、一座には欠かせないベテラン役者でした。
 そのため、明治35年(1902)から残されている日記には、大阪や京都のことがたくさん出てきます。明治後期から昭和初期の関西の劇界のことはもちろん、人々の生活、風俗、世相など、当時のことを考えるネタの宝庫と言えます。
 何を食べた、いくら使った、どこで遊んだ、誰から何をもらった、何時に寝た、などなど、几帳面な人だったらしく、こまごまと日記に付けています。芝居のことに限らず、庶民生活の全般について、いろんなことが記されていて、これを読まない手はない、と思ったわけです。


 昔の人の誕生日祝い

 市川箱登羅は、幕末の慶応3年生まれです。では、誕生日はいつか? 私は最初、ここで引っ掛かったのです。
 ある種の情報には、10月9日生まれ、と書いてあります。
 これはおそらく、没後まもなく、この日記を紹介された河竹繁俊氏の論文に10月9日と書かれているからでしょう。

 でも、いろいろ見ていくうちに、10月19日という記載も出てきました。「1」があるかないかなので、どちらかが間違っているのだろう、と思いました。

 ここで私が興味を持ったのは、「昔の人って、どういうふうに誕生日のお祝いをしているんだろうか」ということです。

 まず思い浮かぶのは、昔は数え歳、つまり正月に1つ歳を取るのだから、誕生日自体はさほどお祝いしないのではないか、というものです。

 けれども、以前調べた大阪の豪商・鴻池家では、明治時代、当主(11代善右衛門)の誕生日に、親戚一同が集まって宴会を開き、最後に“福引大会”で締めていた、ということが分かっています(御子息の回想録による)。
 明治時代になると、誕生日祝いをするケースもあったわけです(鴻池家は一般庶民とはとても言えないですが)。

 では、箱登羅さんはどうだったのか? 10月9日と10月19日と、念のため両方の日付を毎年調べてみました。

 やっぱり、何も書いてない……

 ということは、誕生日のお祝いはしなかったし、意識すらしなかったのか……やはり昔風だな、などと思ったのです。


 いつが誕生日なのか?

 ところが、日記を読み進めていくと、おやっ !? という記述に出会いました。
 明治36年(1903)12月7日のところ。この日、箱登羅は京都・南座で興行中でした。

 十二月七日 月 晴/南座九日目 (中略) 此日我等のたん生に付伏見いなりへ参詣ニ行 (後略) 

 「我等(われら)」は、この日記では「私」の意味。
 つまり、12月7日の今日が自分の誕生日で、芝居の合間に人力車に乗って伏見稲荷に参詣に行った、ということなのです。

 12月7日って、10月じゃないんですか? あなたの誕生日は……

 「市川箱登羅日記」

 しばし考えて、思い付いたのは、新暦と旧暦、ということでした。
 
 明治36年はもちろん新暦(太陽暦)ですが、箱登羅が生まれた慶応3年(1867)はまだ旧暦(陰暦=太陰太陽暦)を用いていました。
 旧暦の日にちは、新暦になるとズレが生じます。いまでも、お盆など「旧盆」でやる地域がありますね。

 実は、明治36年12月7日は、旧暦に換算すると10月19日だったのです!

 私もこれまで意識したことがなかったのですが、新暦の「今日」が旧暦の何月何日に当たるのかは、計算するとすぐ分かるのだそうです。インターネット上にも、たくさん換算サイトがあります。

 そこで、そのサイトを使って、毎年、旧暦10月19日がその年の何月何日になるか、調べてみました。

 例えば、明治35年は11月18日。明治37年は11月26日。明治38年は11月15日。でも、何も書かれていません。そのあとも何もない日が続くのです(日記が欠けている年もある)。

 ようやく出てきたのが、明治42年(1909)、12月1日でした。

 十二月一日/晴/京都南座初日 (中略) 此日旧十月十九日ニ当リ 我等がたん生日也 (後略)

 確かに「旧十月十九日ニ当リ」と書いてあります! はっきりと旧暦に換算して、その日を自分の誕生日と考えていたわけです。
 そしてまた、箱登羅丈の誕生日が10月9日ではなく19日であることも、確実になりました。

  市川箱登羅紋


 あまりお祝いしない? 明治時代の誕生日

 現在翻刻済みの大正2年(1913)までで、明瞭に誕生日と記載があるのは、たった3日です。12年で3回とは、ちょっと少ない? 誕生日に対する意識が、現在より低いのでしょうか。

 大正元年(1912)には、短く 「但[ただし]此日我等たん生日 旧十月十九日」とだけ記しています。
 現在のように、みんなでパーティーをするというのは、ごく一部の人たちに限られていたのでしょうか。

 ちなみに、新暦と旧暦の対比をどのように知ったかというと、おそらく暦(こよみ)を見たのだと思います。
 箱登羅日記には、年末に新年の暦を購入する記事もあり、暦には今日が旧暦の何日に当たるかが分かるようになっていたからです。


  暦




 【参考文献】
 菊池明「市川箱登羅日記」(「歌舞伎 研究と批評」第4号~連載中)
 河竹繁俊「市川箱登羅の日記(抄録と解説)」(『歌舞伎叢攷』中央公論社、1949年)
 船越幹央「鴻池家の日々」(『豪商鴻池』東方出版、2003年)


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