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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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信者の篤志で修築されてきた赤山禅院の堂宇、その建築年代に頭をひねる





赤山禅院


 広壮な寺域を持つ赤山禅院

 前回に引き続き、左京区にある赤山禅院です。

 赤山は、中国の地名で、入唐した円仁(慈覚大師)が立ち寄った場所。その地の赤山大明神(=泰山府君)を勧請したものが、比叡山西麓の赤山禅院です。
 このように延暦寺と関係の深い天台宗寺院で、都の北東にあることから「皇城表鬼門」と称しています。

 「都林泉名勝図会」より「赤山社」 「都林泉名勝図会」より

 修学院離宮から目と鼻の先のところで、いまでこそ住宅に囲まれていますが、往時は田畑の中に木立があり、その奥に位置していたのでしょう。
 もちろん洛外で、京の都から、ゆるゆると歩いて参詣すれば、絵のような女性の足なら一日ががりというわけです。

 「都林泉名勝図会」より「赤山社」
  「都林泉名勝図会」(1799年)

 本殿、拝殿があるほか、摂末社もあって、池泉をめぐる回遊式庭園風の境内です。

 「都名所図会」(1790年)には、本殿、拝殿のほかに、絵馬所や本地堂があります。

 「都名所図会」より「赤山社」
  「都名所図会」(1790年)

 ところが、いま訪れると、他にも地蔵堂、不動堂をはじめ、福禄寿殿や弁財天堂、御滝堂など数多くの堂宇があります。
 今回、実地でそれらを見ながら、それぞれがどのように建てられたのか、頭をひねったのでした。


 「愛宕郡村志」と「都名所図会」

 赤山禅院は、江戸時代の地誌にも登場しますが、個々のお堂についてまでは記されていないようです。
 明治時代になり、明治44年(1911)刊の『京都府愛宕(おたぎ)郡村志』には、「境内堂宇」として次のように紹介されています。

 神殿  方丈  拝殿  不動堂  茶所  末社三ケ所  

 「神殿」は本殿です。
 気付くことは、「不動堂」があることです。

 この不動堂、江戸時代にはなかったような……

 もう一度、「都名所図会」を見てみると……

 「都名所図会」より「赤山社」

 赤山禅院の石段の右に、「雲母不動道」と記されているのです。この「不動」が、実は関係あるのですね。

 赤山禅院の東方は、比叡山への登り路に当たりますが、この山道を「雲母坂(きららざか)」と言います。その登り口にあったのが、雲母寺(うんぼじ)でした。
 『愛宕郡村志』には、次のように書かれています(句読点は補いました)。

 雲母寺跡
 拾芥抄載するところにて、元慶年中、相応和尚の開基なりといふ。音羽谷の南面に在り。延暦寺に属す。
 境内二千六百余坪、堂宇も完備せしか、明治十八年、滋賀県に属し、其後廃寺となり、堂宇は毀撤して空しく荒墟となれり。其不動堂のみは赤山禅院に移築せり(107ページ) 


 雲母寺は、延暦寺に属する寺で、明治18年(1885)には延暦寺と同じ滋賀県の管轄下となった。しかし、その後、廃寺となって堂宇は荒廃したが、本尊・不動明王を祀る不動堂だけは赤山禅院に移築された、という内容です。

 つまり、先ほどの「不動堂」は、雲母寺の本堂が移築されたものなのでした。


 拝殿と本地堂

 この不動堂がいつ建立され、移築されたのか、当然知りたいところです。

 しかし、『京都府の近世社寺建築』(1983年)には、赤山禅院については調査されていません。うがった見方をすれば、当院の堂舎は近代のものだから対象外になった、と考えることもできます。
 では、『京都府の近代和風建築』(2009年)を見てみました。すると、当院については、拝殿と地蔵堂が明治44年(1911)築と記されているのが分かりました。

 赤山禅院
  拝殿

 赤山禅院
  地蔵堂

 地蔵堂は、もとの本地堂にあたります。赤山明神の本地仏が地蔵菩薩であると考えられていたからです。
 「都名所図会」にも、「本地堂」として登場していますね。

 赤山禅院
  本地堂(「都名所図会」)
  
 この2つのお堂が、明治末の建築とされています。

 拝殿の前に、このような石柱が立っています。

  赤山禅院

 「拝殿改築 大阪 友親会」とあります。
 裏面には、「明治四十四年十月 発起人 辻井安治郎/福原源次郎/津田□太郎」と、改築年と発起人3名の名前が記されています。

 この「改築」をどう考えるかですが、前の建物を壊して、新築したとすれば、現在の拝殿は明治44年(1911)建築ということになります。
 地蔵堂も、同時に建て替えられたということでしょう。


 増築された不動堂

 では、不動堂はどうなるのでしょうか。
 少なくとも、明治18年までは雲母寺にあったわけなので、移築は明治中期から後期ということになるでしょう。

 現在の不動堂を見てみましょう。

 赤山禅院

 まず正面から見ると、桟瓦葺きの入母屋造(平入)で、桁行は三間。こぢんまりとしたお堂です。

 横に回ってみると……

 赤山禅院

 おや、入母屋造の建物の後ろに、宝形造の建物が連結されています。
 
 反対側の左(北)側面。

 赤山禅院

 方三間の宝形造のお堂です。右側に、入母屋造のお堂がくっついてます。
 なかに入ると分かりますが、お不動さんを祀る堂宇は、宝形造の方です。そして両堂の間には仁王像が安置されています。入母屋造の方は、広間のようになった拝所なのでした。

 この建物を見て、私が考えたことは、こうでした。
 雲母寺から移築された不動堂は、後ろの宝形造の建物です。おそらく明治後期頃に移して来られたのでしょう。それが、のちに改築され、前面に拝所が造られたのだ、と。

 こう考えた理由は、これです。

  赤山禅院

 不動堂の右側にある、この石柱。
 「不動堂大修繕 大阪 友親会」と記されています。
 裏面には、「大正四年九月 発起人 辻井安治郎/福原源次郎/津田□太郎」とあります。
 先ほどの拝殿と同じく、大阪の友親会が尽力して、不動堂を修繕したのでした。

 では、どういった修繕をしたのでしょうか。
 この写真を見てください。

 赤山禅院
  親柱に「大坂/友親会」と刻まれている

 お堂の拝所に入る石段を友親会が造っています。

 素直に考えると、大正4年(1915)の修繕(それは「大修繕」というほどの規模)の際、宝形造の不動堂の前に、入母屋造の拝所(桁行三間、梁間三間)をつなげた、と考えられます。
 では、その拝所はどうしたのかというと……

 赤山禅院
  拝所の側面

 拝所の細部を見ると、梁などはある程度古いのですが、建具はそれに比べると随分新しいのです。明らかに、作られた時期が違います。
 私が思ったのは、この拝所は何かの建物の転用なのではないだろうか、ということ。

 そこで思いついたのが、これです。

 「都名所図会」より「赤山社」

 「都名所図会」に描かれていた絵馬所の建物。
 これに建具を付けて、再利用したのでは?

 そう思って、いま拝所に入ると、中にはたくさん絵馬が懸けられていて……
 なんだか、そう思えてくるのですが。

 ぜひとも、証拠をつかみたいと思って、さらに調べてみました。
 竹村俊則氏の『新撰京都名所図会』。昭和33年(1958)刊。寺社境内の鳥瞰図が掲載されている本。
 
 ところが、です。
 竹村氏が描く赤山禅院の境内図には、宝形造の不動堂はあるのですが、その前の拝所は描かれていないのでした……

 このことは、昭和57年(1982)刊の『昭和京都名所図会』でも同じでした。

 ……。

 いい推理だと思ったのですが、やれやれ。

 この問題、しばらく解決が付かないと思うのですが、もし分かればご報告します。




 赤山禅院

 所在 京都市左京区修学院開根坊町
 拝観 自由
 交通 叡山電車「修学院」下車、徒歩約20分



 【参考文献】
 「都名所図会」1780年
 「都林泉名勝図会」1799年
 『京都府愛宕郡村志』1911年(『洛北誌』大学堂書店、1970年、所収)
 『京都府の近世社寺建築』京都府教育委員会、1983年
 『京都府の近代和風建築』京都府教育委員会、2009年
 竹村俊則『新撰京都名所図会』白川書院、1958年
 竹村俊則『昭和京都名所図会』駸々堂出版、1982年
 

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