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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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双子の兄弟が、新時代の歌舞伎を切り開いた - 新京極は松竹あけぼのの地 -





旧ピカデリー・松竹マーク


 新京極から立身した兄弟

 関西を代表する歴史的経済人って、誰でしょう?(活躍中の方は除いて)
 そして、京都の出身者は?

 一番有名なのは、やはり松下幸之助でしょうか。
 でも、この人は和歌山出身。京都じゃない。

 阪急東宝グループの総帥、アイデアマンとして知られる小林一三(いちぞう)。
 宝塚歌劇を作った人で、大臣を務めたこともあるけれど、出身は山梨。

 住友の近代化をリードした初代総理事・広瀬宰平(さいへい)も、著名な経営者ですが、彼も近江(滋賀県)出身ですよね。

 フランスのリュミエール兄弟と知己で、日本初の映画興行(シネマトグラフ)に貢献した稲畑勝太郎。
 映画史には、必ず出て来る名前。
 染料商・稲畑産業の創始者で、この人は京都の真ん中の生まれだけれど、みんな余り知らないですか……

 ノーベル賞の田中耕一さんを出した島津製作所。
 京都を代表する理系企業で、創業者は島津源蔵。この人は、名前のイメージとは違って、京都の人。跡を継いだ二代目も源蔵で、蓄電池の発明をしました。昔は、バッテリーにそのイニシャル「GS」と入っている商品があったけれど、有名な名前とまでは……

 考えあぐねるうちに、みんなが知っている名前がありました!

 <松竹>

 知ってるでしょう。
 映画を作っている会社で、歌舞伎の興行など演劇もやっていますね。

 人名じゃない?
 いえ、この「松竹」という社名、実は“人名の一部”に由来するのです。

 松次郎と竹次郎。
 二人の「松」と「竹」を取って、「松竹」なのですね。

 この松次郎・竹次郎の“松竹兄弟”は、京都の出身。つまり、大企業・松竹株式会社の生みの親は京都人であり、その事業のルーツもまた京都にあったのです。
 今年は、松竹にとってはアニバーサリーの年らしいので、今回は、その歴史を少しひもといてみましょう。

 松竹マーク 松竹社章 松に竹を合わせる


 夷谷座と阪井座から

 大谷栄吉・しも夫妻が、明治10年(1877)に授かった双子の兄弟。それが松次郎と竹次郎でした。
 栄吉は、相撲の興行関係者でしたが、新京極の阪井座の共同出資者でもありました。弟・竹次郎は、父に代わって数え二十歳のとき、その仕事を継いで阪井座の木戸に座ります。
 兄の松次郎は、同じ頃、白井八重と結婚し、白井家に養子に入りました。養父の白井亀吉は、新京極・夷谷座の中売り(売店経営者)でした。この頃、松次郎は芝居の興行を始めており、双子の兄弟は演劇の世界に生きることになりました。

 白井松次郎 大谷竹次郎
 白井松次郎      大谷竹次郎
 (『松竹関西演劇誌』より)

 兄・松次郎の養父・白井がいた夷谷座は、新京極の誓願寺前にありました。
 先頃(2014年)まで、ダイエーのグルメシティがあったのですが、そこはかつて京都ピカデリー劇場でした。

 旧ピカデリー・松竹マーク

 ビルの壁面には、ピカデリーの英字と松竹の社章が付けられています。
 ここが松竹のゆかりの地のひとつですが、

  夷谷座(明治9年~昭和13年)
    ↓
  松竹劇場(~昭和29年)
    ↓
  京都ピカデリー劇場(~平成13年)

 と、変遷してきました(「京都市劇場史略図」、『近代歌舞伎年表 京都篇』所収)。
 少し動きはあるものの、明治後期からは松竹の経営となりました。大正8年(1919)からは映画の常設館になっています。

 もうひとつの故地とも言うべき阪井座は、四条通新京極上ル、東側にありました。

  四条道場芝居
    ↓
  阪井座(明治25年~33年)
    ↓
  歌舞伎座(~昭和11年)
    ↓
  京極映画劇場(~昭和24年)
    ↓
  SY京映(~昭和37年)
    ↓
  SY松竹京映(~平成13年)

 と移り変わってきました。歌舞伎座の時代が長く続きましたが、のち映画館に変わりました。
 現在、ここは松竹京都第三ビルとなり、1階にはカジュアルファッションのライトオンが入っています。ビルの壁面には、松竹の紋が取り付けられています。

 旧松竹座・松竹マーク

 松竹の社史によると、明治28年(1895)、兄弟がこの劇場の興行主になったことをもって、会社の創業年としています。つまり、今年2015年は、松竹創業120年に当たるというわけです。


 南座も松竹の経営
 
 松次郎・竹次郎兄弟が「松竹」と初めて呼ばれたのは、明治35年(1902)のことだそうです。
 明治35年1月3日の大阪朝日新聞に、「松竹の新年」という記事が載り、二人が初めて“松竹”と合わせて呼ばれたのでした(『松竹百年史』)。このあと、松竹合資会社(のち合名会社)という社名になっていきます。

 不思議なことですが、初めは他人から言われた呼称だったのですね。
 ちなみに、当初は「しょうちく」でなく、「まつたけ」という読みでした。

 ところで、現在、京都を代表する劇場といえば、これはもう南座をおいて他ありませんが、こちらも経営は松竹です。

  南座 南座

 江戸時代以来の歴史を持つ劇場で、明治39年(1906)に松竹が経営することとなりました。
 昭和4年(1929)、当時はやりの“桃山風”の近代的な建物に改築されました。
 かつて官許の証しであった櫓には、松竹の紋が染め抜かれています。

 南座


 松竹の経営方針

 松次郎・竹次郎の兄弟は、明治38年(1905)、大阪の名優・中村鴈治郎(がんじろう)と提携します。そして翌年、鴈治郎を擁して、京都から大阪・道頓堀(どうとんぼり)に進出。歌舞伎界を席巻していくことになります。
 記念すべき鴈治郎との提携が成って興行した劇場が、新京極の歌舞伎座。いまライトオンが入っている、あの場所なのでした。

 歌舞伎座跡(松竹京都第三ビル)
  歌舞伎座跡(松竹京都第三ビル)

 明治40年代から大正ヒトケタにかけて、道頓堀の「五座」(5つの主要劇場)を次々と買収していきました。大正8年(1919)夏には、最後に残った弁天座を手中にし、道頓堀を制覇しました。
 これによって、いったい何が起こったのか?
 道頓堀の各劇場が、それぞれに特徴を持った施設となったのです。いまふうに言うと、差別化がなされたのですね。
 
 道頓堀には、「五座」と呼ばれる5つの劇場がありました。
 浪花座、中座、角座、朝日座、弁天座です。
 加えて、大正末には、松竹座が開業しました(大正12年=1923年)。
 
 この6つの施設が、各々の個性を持っていたのです。
 大正15年(1926)に刊行された『大正大阪風土記』には、その特徴が明瞭に記されています。その要点を引用しておきましょう。

 ・中座 「富裕者の娯楽場」
     「主として旧劇[歌舞伎のこと]を上演」
 ・浪花座「中流階級を標準に」
     「旧劇・新派を通じて新作者を上場する方針」
     「中央平場の一等席を全部椅子席」
     「手軽に芝居を見られるように経営」
     「二部興行にして一回の観劇料を比較的低下した」
 ・角座、弁天座
     「一般民衆を相手に」
     「中央平場を椅子席」
     「低い入場料で観覧せしめてゐる」
 ・朝日座「松竹キネマの封切館」
     「一般民衆のために、本邦優秀映画を提供」
 ・松竹座「海外の優秀映画を」
     「西洋の優秀映画」
     「松竹楽劇部[レビューのこと]の完成品を紹介」

 中座→浪花座→角座・弁天座、というふうに、高級な劇場から大衆的なところまで、お客の階層にあわせた施設を提供したのです。ちなみに、ドル箱俳優・鴈治郎のホームグラウンドは、中座でした。
 映画でも、松竹が制作した邦画を朝日座で、アメリカなどから輸入した洋画を松竹座で上映するというふうに、使い分けたのでした。
 もちろん、経営はすべて松竹なので、お客がどこを選んでも、松竹としては実入りがあります。
 『大正大阪風土記』は、「松竹合名会社が如何に、道頓堀各座を通じて出来得る限り各種の人々の趣味と欲求に応ぜんことに努力してゐるかが窺はれる」と記し、この施策に注目しています。

 このような経営方針は、小林一三や松下幸之助にも相通じる“大衆主義”だといえます。
 大正時代から昭和初期にかけて、社会は確実に変化し、企業経営もそれに見合ったものが求められました。白井松次郎・大谷竹次郎の兄弟は、それを敏感に察知し、大衆の方を向いた経営を模索。演劇を改革し、映画を手掛けたのです。
 のち、関西は松次郎、関東は竹次郎とフィールドが分かれ、京都人というイメージも薄れますが、京都が生んだ演劇人として記憶に残る兄弟です。




 歌舞伎座跡(松竹京都第三ビル)

 所在 京都市中京区新京極四条上ル中之町
 見学 自由
 交通 阪急電鉄「河原町」下車、すぐ



 【参考文献】
 『松竹関西演劇誌』松竹編纂部、1941年
 『松竹百年史』松竹株式会社、1996年
 『近代歌舞伎年表 京都篇』別巻、八木書店、2005年
 法月敏彦「関西における松竹会社の動向」(「歌舞伎 研究と批評」16 所収)
 『大正大阪風土記』同刊行会、1926年


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