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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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仁王門通の由来となった頂妙寺の門の上には、手紙が !?

洛東




頂妙寺二天門


 「仁王門通」の名前のルーツ

 鴨川の東には、二条通と三条通の間に、仁王門通という通りがあります。
 この狭い通りに南面して、日蓮宗の頂妙寺があります。

 頂妙寺
  頂妙寺(奥が二天門〔仁王門〕)

 通りの名前の由来は、異説はあるものの、頂妙寺の「仁王門」だといわれています。カッコを付けたのは、正確に言うと、持国天と多聞天(毘沙門天)の二天を祀る「二天門」というべきものだからですが、一般には仁王門で通っています。

 頂妙寺二天門
  仁王門(二天門)

 この門の持国天、多聞天は、江戸時代には篤く信仰され、門のための拝殿さえ設けられていました。

 これについては、前に書いた記事をご覧ください。 記事は、こちら! ⇒ <仁王門通の由来である頂妙寺とナゾの絵>

 
 門の上に書状の額が…

 この門は、持国天と多聞天に注目が集まるのですが、上を見上げると意外なものがあります。

 頂妙寺二天門

 この扁額。
 なにやら長文が書かれています。クローズアップすると……

 頂妙寺二天門

 中央に、枠囲みされた10数行の手紙のようなものがあり、左右の枠外にも文字が書かれています。

 枠外の右には、「天正十二年七月依/豊臣太閤秀吉公台命」とあります。
 左には、「賜当山僧正日珖御免状/洛陽 頂妙寺蔵板」と記されています。

 天正12年(1584)7月に、豊臣秀吉から、当寺(頂妙寺)の日珖にもらった免状である、くらいの意味ですね。
 この年は、本能寺の変で織田信長が没してからすでに2年、秀吉の治世になっていました。

 中央の書状、高い位置で読むのに苦労しますが、書き出しは、「先年安土法問」と読めます。これは、天正7年(1579)に行われた安土宗論のことだと分かります。
 織田信長のもとで、法華宗(日蓮宗)と浄土宗が問答し、法華宗が論破されて大打撃を受けた事件です。この問答には、頂妙寺の日珖も出席していました。

 この書状は、前田玄以判物というもので、秀吉の家臣・前田玄以(げんい)が出したものです。
 ちなみに、判物(はんもつ)とは、大名などの花押(判)がある文書で、所領を与えたり特権を付与する場合などに使われたスタイルだそうです(佐藤進一『古文書学入門』)。

 先日、頂妙寺の特別公開の折に、判物の実物を見ることが出来たのですが、そのおよその内容は、「先年の安土の問答以来、法華宗は逼迫していたが、このたび当時の誓約書を破って、以前のように戻す」というものです。安土宗論以来、退潮を余儀なくされていた法華宗が、再びお許しを得て復活できる、そんな内容でした。
 日付は7月18日、前田玄以の花押もあり、宛先は「法花宗中」。

 ところが、門の額をつぶさに見てみると、言っている内容は同じことなのですが、文章はかなり違っていることが分かります。日付も7月25日らしく、宛先も日珖上人になっています。
 お寺に所蔵されている現物と、門に掲げられたものは、ほぼ同内容だが別のもの、ということになります。この相違については、よく分かりません。

 信長没後、秀吉のお墨付きを得て、洛中で布教できるようになった法華宗。それを満天下に示すために門に書状を掲げたという珍しいケースです。
 やっぱり、この門は興味が尽きません。




 頂妙寺 二天門(仁王門)

 所在 京都市左京区仁王門通川端東入大菊町
 拝観 境内自由
 交通 京阪電車「三条」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 佐藤進一『古文書学入門』法政大学出版局、1971年


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