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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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小栗栖で没した明智光秀の首と胴は、どこに行き、どうなったのか?

洛東




日ノ岡名号碑


 “明智藪”で討たれた光秀の首は…

 本能寺の変のあと、天王山の戦い(山崎の戦い)で敗れた明智光秀は、勝竜寺城から夜中ひそかに逃れ、坂本城に落ち延びる途中、醍醐あたりで土地の人々に命を奪われました。
 この場所が、地元では今でも「明智藪」として伝わっていることは、前回お話しました。

 今回は、討たれた光秀の首、そして胴は、どこに行ったのか? という疑問の解決編です。

 明智藪
  明智藪


 付近には胴塚もあった

 明智藪から街道筋に戻り、山科方面(北)へ歩を進めます。
 15分ほど歩くと、西側の路傍に石碑を見付けることができるでしょう。山科区勧修寺御所内町で、西側の歩道を歩いていれば見落とすことはありません。

 明智光秀胴塚

 これが、明智光秀の胴塚と称されているものです。

 明智光秀胴塚

 明智光秀胴塚 明智光秀胴塚

 碑には、単に「明智光秀之塚」と記してあります。碑自体は、昭和45年(1970)に山科の方が建立されたものです。
 台石などは古そうですが、それが元からこの塚で使用されていたものか、何かを転用したものかは不明です。
 古くから胴塚であるとの伝承がありますが、塚という感じの土盛りもありません。かつては田んぼの中に、塚があったのかも知れませんね。
 竹村俊則氏よると、昭和30年代にはすでに塚の形をとどめず、1坪余りの空地に卒塔婆を立てていたそうです。
 また、その北方には光秀が乗っていた馬を埋めた馬塚があったが、灌漑用の池になったといいます。結構、念入りですね。


 当時の日記の記述には…

 同時代の日記を見ると、山科言経(ときつね)の「言経卿記」には、天正10年(1582)6月15日条に、郷人に一揆として討たれた光秀について、「首、本能寺へ上げ了(おわ)んぬ」と書かれています。
 里人に討たれ、その首は京都・本能寺へ持って行ったというのです。

 吉田兼和(兼見)の「兼見卿記」の同日条には、光秀は醍醐辺で一揆に討ち取られ、その頸(くび)は村井清三、三七郎殿へ持参されたと記されています。
 村井清三は、信長の重臣・村井貞勝の家臣です。三七郎殿は、信長の三男・織田信孝。信長や貞勝の亡き後、残った彼らに首が届けられたというのです。
 つづく16日条には、「向州[日向守=光秀のこと]頸、筒体、本応寺[本能寺]にこれを曝すと云々」という記事があり、光秀の首と胴体が本能寺に晒されたと分かります。

 奈良・興福寺の「多聞院日記」6月18日条には、本能寺には光秀をはじめ首3000ほどがあったというと記されています。

 このことについて、ルイス・フロイスの「日本耶蘇会年報」を見ておきましょう。少々グロテスクなので、ご注意を。

 明智、莫大の黄金を与ふるを約し、坂本[城]に入るまで救助せんことを土民等に頼みしが、彼等[土民ら]は刀及び背に負ひし僅少の品物を奪はんと欲し、彼[光秀]に一槍を附け、其首を斬りしが、彼等は其首を三七[織田信孝]に献ずる勇気も悪意もなく、他の一人、此務をなしたり。
 而して城中[勝竜寺城]の諸人、其他多数を熱心に斬首し、都の信長の御殿に差出せしもの、一度に千余級に達し、供養のため、悉[ことごと]く整列せしめ、(夏の真中なりしかば)臭気甚だしく、彼の傲慢なりし暴君[信長]に相当せりと思われたり。
 風、同方向より吹寄する毎に、臭気の為め、我等の会堂に居る能(あた)はざる程なりき。


 討たれた光秀の首と、他の1000ほどの首が本能寺に並べられたというのです。
 夏場のことなので、その臭気ははなはだしく、イエズス会士たちは会堂にいられないほどだったと伝えています。

 此斬首は可なり長く続き、多くの場所にて行われたり。
 其後二日を経て、パードレ・オルガンチノ、他の一人のパードレと共に、右信長の御殿の前を過ぎしが、首級三十余を、羊か犬の頭にてもあるが如く、一本の縄に貫きて、売らんとする者を見たり。此憐れむべき人々は、此の如き棒物をなすを以て、最も彼の霊を喜ばすものなりと信ぜるなり。
 明智の首も亦、其死骸と共に同所に持ち来れり。是れ日本全国を覆すの野心を抱きし者の、憐れなる最期なり。神の正義は、彼の恐るべき陰謀を企てし後、十二日以上の生命を彼に許し給はざりき。
 彼の首級は、先づ信長の遺骨の前に捧げられ、其後、三七[信孝]の命に依り、胴と継ぎ合せ、市外にて十字架に架せられたり。


 光秀の首は、その死骸(胴体)とともに本能寺に持って来られ、信長の遺骨の前に献じられたといいます。その後、信孝の命によって、首と胴はつなぎ合わされ、市外で「十字架に架せられた」、つまり磔(はりつけ)にされたのです。

 惨いと言えば余りにも惨い、この処断。父を誅した逆臣の首と胴を縫合して、磔にしたのです。遺児・信孝の思いは、いかばかりだったでしょうか。


 首塚を築く

 念のため、他の史料も見ておきます。

 「言経卿記」7月2日条には、粟田口に去る○日(日は空白)に、明智日向守の首とむくろなどを接合したものが張り付けに懸けられた、斎藤利三も同じである、と書かれています。
 斎藤利三は光秀の重臣で、捕らわれて六条河原で斬首されていました。
 そのあとに続けて、「其外(そのほか)、首三千余、同所ニ首塚ヲ築かれ了(おわ)んぬ」とあって、光秀と利三が磔になった粟田口に首塚が築かれたと記しています。

 首塚については、「兼見卿記」6月23日条に、「頸塚を粟田口之東□□之北に築くと云々」とあり、村井清三らを奉行として22日から築き始めたと記されています。

 ここまでを整理すると、次のようになるでしょう。

・6月13日、勝竜寺城を脱した明智光秀は、山科、醍醐あたりで郷人に討たれ、首を取られた。
・その首と胴体は、本能寺に運ばれ、他の首(1000、あるいは3000)とともに並べられた。
・首と胴体は接合され、斎藤利三の遺骸とともに、粟田口で磔にされた。
・6月23日、粟田口の東に首塚が築造された。

 史料から見ると、光秀の胴体は本能寺に持って来られたようなので、醍醐あたりに埋葬された可能性は低いといえるでしょう。


 粟田口の刑場を訪ねて

 明智光秀の遺骸が、粟田口に磔にされたという衝撃の事実に、その場所を訪ねないわけにはいきません。
 京の東端・粟田口は、東海道が大津方面とつながる出入口です。現在の地下鉄東西線の駅名でいえば、「東山」から「蹴上」付近に当たるでしょう。
 
 この場所には古くから刑場がありました。
 また江戸時代も刑場は置かれ、明治維新まで続きました。場所は、蹴上から大津方面に至る峠、九条山付近だったそうです。その東の地名が日ノ岡ということから、日ノ岡の刑場とも呼ばれました。

 九条山
  九条山を通る三条通(旧東海道)

 この刑場に関連のある遺物が、いまも日ノ岡に残されています。
 地下鉄「御陵」駅から西へ歩くと、すぐそこに至ります。

 日ノ岡
  日ノ岡(西を望む)

 北側の歩道を進むと、峠道に差し掛かるところに大きな碑が建っています。

  日ノ岡名号碑

 「南無阿弥陀仏」の六文字が刻まれた名号碑。
 実は、これが粟田口刑場の名残を示す遺物なのです。碑の左側面には、「享保二丁酉七月」と彫られています。

 この由来は、『史料京都の歴史 11 山科区』所収の安祥院文書により分かります。
 建てた人は、木食正禅(養阿)という僧です。
 彼は、例年冬の夜に「六墓五三昧」を巡って念仏を唱え、「重罪之霊魂」を弔っていました。六墓五三昧とは、「南無地蔵、大谷、西ノ土手、あわた口、西所河原、元三昧」(六墓)と、「千本、蓮台寺、七条、狐つか、金光寺」(五三昧)を指し、刑場や墓地のことです。特に、粟田口と西土手(現在の円町付近)は刑場として著名です。
 これらの場所で、正禅は享保2年(1717)より回向を行っていたのですが、3年が過ぎたのでそこに供養塔を建てたのです。特に、粟田口刑場の石塔は高さが1丈3尺といいますから、約4mのとても大きなものでした。

 現在残っている名号碑の高さは約2.9mしかないそうです。
 一見して分かるように、上下で切断されています。

  日ノ岡名号碑
  「弥」の中央に左右の断裂がある
 
 また、よく見ると、縦方向にも三分割されているのが分かります。
 
 実は、この碑は、明治維新後に刑場が廃止されたあと処分され、切り分けてさまざまな石材に転用されていたといいます。それで縦長に切断されているのでした。

 ところが、昭和8年(1933)、京都-大津間を結ぶ旧国道1号線が改修された際、工事の最中に土中から発見されたのでした。
 完全な姿ではなかったので、少し補って再建したといいます。

  道路修築紀念碑 旧国道修築紀念碑

 
  切り裂かれた碑

 この名号碑の隣には、「南無妙法蓮華経」を刻んだ題目碑があります。

  日ノ岡題目碑

 昭和15年(1940)に建立されたものですが、土台の部分に分断された古い碑が用いられています。

  日ノ岡題目碑
  右に「南無妙」の文字が見える

 現地でこれを見て、石が泣いている、と思いました。
 刑場の露と消えた罪人の霊を弔った碑を、時代が変わって不要になったからといって切り刻む、その人間の業の深さ。無言の石だからこそ、私達に多くのことを語り掛けてきます。

 オランダ人エンゲルベルト・ケンペルが見た粟田口刑場の様子を紹介しておきましょう。1692年5月8日の「江戸参府紀行」の記事です。

 日岡という山の麓にある村に着くと、そこからほど遠からぬ所に南無阿弥陀仏という文字を彫った丈の高い一つの石碑が立っていた。その向いに二人の罪人が磔[はりつけ]にされていた。
 その磔の柱のすぐ近くの、しかも石碑も十字架も見えない両側に、粗末な物を敷いて一人ずつ僧侶が坐っていた。そして道に沿って七枚の板がさしてあった。察するに死んだ者の名がそれぞれ書いてあったのであろう。また板の一枚一枚に南無阿弥陀仏と書いた旗のようなものが吊るしてあった。

 漆塗りの日笠をかぶった僧は一枚の板を前に置き、その上に金属製の容器を逆さにしたような形の鐘を据え、時々たたいては、なんまんだあを唱えていた。また、そばにもう一つ手桶を置き、それに結びつけた文字の書いてある何枚かの紙片を、手桶にいっぱい入っていた水にちょっとつけた。両側には小さいシキミ[樒]の束がさしてあり、僧はその一つを小さい棒に結びつけて、それで文字の書いてある板切れを絶えず洗い浄めた。そしてその都度そこに書いてある死んだ人の戒名を、経文と一緒に唱えていた。

 前を通り過ぎるすべての日本人は、僧たちに小銭を投げ与えていた。その布施に対して僧たちは、処刑者の霊のために祈願しなければならないのは当然だが、ほかの人ならば、彼ら僧たちのずる賢い顔つきから、彼ら自身の方が、ぜひとも代願が必要だと推論したくもなるだろう。


 江戸時代の様子ですが、これより百年余り前、明智光秀の遺骸も磔にされたのでした。

 そのあと造られた首塚とその移転、現状などについては、別に書いていますので、そちらをお読みください。 記事は、こちら ⇒ <明智光秀の首塚は、幕末から明治、歌舞伎役者たちによって整備された>




 明智光秀胴塚

 所在 京都市山科区勧修寺御所内町
 見学 自由
 交通 地下鉄「醍醐」、または「小野」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 『兼見卿記』2(史料纂集)
 『言経卿記』1(大日本古記録)
 『多聞院日記』三教書院、1936年
 『史料京都の歴史 11 山科区』平凡社、1988年
 竹村俊則『新撰京都名所図会 5 』白川書院、1963年


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