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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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本能寺の変のあと、明智光秀が落命したという明智藪は、いまも小栗栖に伝わっている

洛東




明智藪


 「本能寺の変」後の明智光秀

 天正10年(1582)6月2日、全国統一を目前にしていた織田信長は、京都・本能寺で明智光秀に襲われ、49年の生涯を閉じました。
 信長を討った光秀は、諸将の支持を取り付けようとしますが思うように行かず、備中高松から戻ってきた羽柴秀吉らと一戦を交えます。この天王山の戦い(山崎の戦い)で敗色が濃くなった光秀は、勝竜寺城(現・長岡京市)から夜中、近江の坂本城へ向かって落ち延びます……

 ここのところ、明智光秀に関心を抱いている私は、本能寺の変そのものよりも、変後の光秀が気になって仕方ありませんでした。
 光秀の最期としてよく耳にするのは、“小栗栖で農民の竹やりで突かれ、自刃した”というものです。
 これは、「明智軍記」など後世の編纂ものによって語られた内容が、巷間に広まったもののようなので、まずは同時代の史料を参照してみました。


 日記にあらわれた光秀の最期

 吉田兼和(兼見)の日記「兼見卿記」には、本能寺の変とその後について詳細に記されています。
 天王山の戦いのあった6月13日条には、山崎表での合戦で「日向守」(光秀のこと)が敗れ勝竜寺城に入ったことや、14日条には、昨夜(13日)「向州」(光秀)が勝竜寺城を退散したこと、などが記されています。
 そして、15日条には、「向州、醍醐の辺に於て一揆に討取らる」とあり、その首は村井清三や「三七郎殿」(信長の三男・信孝)のもとへ届けられたとあります。

 山科言経(やましなときつね)の日記「言経卿記」にも、6月15日条に、「惟任[これとう]日向守、醍醐辺に牢籠す、則ち郷人、一揆としてこれを打つ」とあり、首は本能寺に届けられたとあります。

 2人の日記から、京には6月15日に明智光秀が討たれたという一報が入ったことが分かり、場所は「醍醐」のあたりとされています。

 奈良・興福寺の多聞院の日記「多聞院日記」には、6月17日条に光秀最期の記事が見えます。奈良なので、情報が少し遅れたのでしょうか。
 「惟任日向守ハ、十二日勝竜寺ヨリ逃テ、山階[山科]ニテ一揆ニタ丶キ殺レ了」とあって、首も「ムクロ」(胴体のこと)も京へ届けられたとあります。
 一揆にたたき殺されてしまったとは、苛烈な表現ですけれど、“信長の大恩を忘れて曲事(くせごと)に及んだのだから天命である”と記す筆者としては、当然の表現なのかも知れません。
 ここでは、「山階(山科)」がその場所として記されています。

 このように、リアルタイムの情報では、特に「小栗栖」と特定されていなかったようで、およそ醍醐、あるいは山科あたりと伝わっていたと思われます。


 明智藪という迷宮

 ということで、京都市伏見区にある小栗栖を訪ねてみました。

 小栗栖は、「おぐるす」と読みますが、地元では「おぐりす」と言われることも多いようです。

 小栗栖 「オグルス」
 小栗栖 「オグリス」

 その場所に行くには、地下鉄東西線の石田駅が最寄りです。
 山科川を渡って、西の丘に向かって進みます。

 山科川
  山科川

 突き当りの交差点を右折して北に進みます。
 山手への入り方が難しいのですが、下の写真の場所を入って行きましょう。「本経寺墓地」の看板が立っています。石田駅からは、この写真の左奥側から歩いて来ることになります。

 小栗栖
  醍醐方面から南を見た分岐路

 まっすぐ進むと、分岐に看板が出ています。

 明智藪

 要所にこの看板があるので、矢印に従って歩きます。
 最後は道なりに進み、住宅で突き当りに見えるようなところに、その場所はあります。

 明智藪

 「明智藪(やぶ)」と刻まれた石碑。
 住宅の脇の狭いところに建っており、詳しい解説も記されています。
 地元では、光秀が討たれた場所を明智藪と称しているのでした。

  明智藪 明智藪

 この解説には、光秀は地元の飯田一党に討たれたと書かれています。飯田一党とは、当地を支配した信濃出身の飯田氏のことで、小城(小栗栖城)を築いていたといいます(『史料京都の歴史 16 伏見区』)。史料的には飯田氏が討ったということは確認できないと思いますが、『史料京都の歴史』には、「飯田家には光秀を討ったのは飯田一党であるとの伝承もある」と記しています。

 この碑から、さらに奥へ進んでいきます。

 明智藪

 手製の「←明智藪」という札の先が……

 明智藪 明智藪

 ここが明智藪 !? 

 明智藪

 地元では、深草から小栗栖へ抜ける山越えを「明智越」とも呼んでいるそうです。

 「拾遺都名所図会」(1787年)には、「明智光秀亡滅旧蹟」として「光秀死亡の藪」が登場します。本経寺の境内にあり、此の薮を所有すると災いがあるので、今はこの寺に寄付していると記されています。
 また、「惣じて此藪の竹の色、一片ハ濃く一片ハ薄黄にして縞筋の如し。これ其霊のとどまるしるしなるか」とあって、光秀の霊のために竹がまだらになっていると書いています。少し恐ろしいですね。

 こんな感じで、光秀落命の地「明智藪」は、伝承の世界に属する気もするのですが、さらに疑問が湧いてきます。

 光秀は、地元の人々に討たれたわけですが、その後、彼の首はどうなったのでしょうか?
 さらに、首から下の胴体はどうなったのでしょうか?
 
 ちょっとグロテスクになりかねない話題ですが、重要なことなので、次回に考えてみたいと思います。

 


 明智藪

 所在 京都市伏見区小栗栖小坂町
 見学 自由
 交通 地下鉄東西線「石田」下車、徒歩約15分



 【参考文献】
 『兼見卿記』2(史料纂集)
 『言経卿記』1(大日本古記録)
 『拾遺都名所図会』(新修京都叢書)
 『史料京都の歴史 16 伏見区』平凡社、1991年


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