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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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歴史家が大胆推理した亀屋陸奥の銘菓「松風」は、ケシと白味噌の味覚が美味





亀屋陸奥・松風


 「松風調進所」亀屋陸奥

 京都駅前にそびえる大伽藍といえば西本願寺と東本願寺ですね。

 西本願寺
  西本願寺

 西本願寺は、堀川通に面していますが、通りを渡った東側(堀川七条交差点の北東)に、一軒の和菓子店があります。

 亀屋陸奥・松風

 看板には、このように書かれています。

 亀屋陸奥・松風

 「本派本山/松風調進所」。

 本派本山とは、西本願寺のこと。東本願寺に対する通称で、昔はよく使われたと思うのですけれど、今は余り聞きませんね(西本願寺の正式名称は、浄土真宗本願寺派「本願寺」。東本願寺は、真宗大谷派「真宗本廟」)。
 
 その西本願寺へ納める「松風」というお菓子を作っている店です。店名が書いてないけれど、脇の小さな看板に記されています。

  亀屋陸奥・松風

 亀屋陸奥。「かめやむつ」、歴史のありそうな名前です。


 松風という菓子

 ここの銘菓が、看板にある「松風」。

 なにげない名前ですが、古典で松風といえば、須磨の汐汲みの女性・松風と村雨を思い出します。
 平安貴族・在原行平が、都から流され須磨(兵庫県)での侘び住まいの折、その心を慰めた姉妹が松風と村雨です。
 以前、須磨に行ったとき、今に伝わる古跡を目にしました。

 須磨・松風村雨堂
  須磨にある松風村雨堂

 地元でも有名でしょうけれど、謡曲「松風」として人口に膾炙している話です。
 これと関係があるのかな、と思ったりしたのですが、後でふれるように少し違った言い伝えがあるようで……

 その銘菓・松風。
 亀屋陸奥で買い求めてみました。

 亀屋陸奥・松風
 亀屋陸奥・松風

 初めてなので、とりあえず8個入り(650円)を買いました。上等なのは箱入りですが、8個入りは写真(下)のような紙のパッケージです。写真(上)は、それを入れてくれたビニール袋。紋が亀の形で、かわいいですね。

 「松風」と筆文字で書かれたパッケージを開いてみると、中に紙箱があり、ふたをあけると……

 亀屋陸奥・松風

 意外な印象。
 8個入りのはずなのに、一体化しています。
 よく見ると切れ目が入っていて、これが4つに分かれます。下にも、もう1段あるようです。
 こんがり焼けている感じですね。

 1個取り出すと、こんな雰囲気です。
 
 亀屋陸奥・松風
  松風

 表面には結構凹凸があり、焼けむらが程よいリズムを醸し出しています。そして、芥子(けし)が振ってあるのが分かりますね。 

 さっそく食べてみると、思いのほか弾力感があります。カステラみたいな食感かと予想していたのですが、歯ごたえがありますね。
 表面には味噌を塗って焼いていると思うのですが、味噌味は案外ほのかで嫌味にならず、かわりに芥子の味覚が広がります。
 素朴な味わいといってよいでしょう。

 亀屋陸奥・松風

 パッケージを見ると、素材には、小麦粉、砂糖、麦芽糖、白味噌、ケシの実を使用と記載されています。味噌は白味噌なんですね。これも京都らしいところ。
 小さく切り分けて売っていますが、もとは直径45.5㎝の鍋で焼いた丸い形のものだそうです。切らずにそのままの「簾巻」という商品もあるようです。


 400年の伝統を持つ銘菓

 松風の由来については、紙袋にも印刷してあり、亀屋陸奥のウェブサイトにも記されています。
 それによると、戦国時代、本願寺(大坂本願寺=石山本願寺)が織田信長と戦っていた際、亀屋陸奥の祖先・大塚治右衛門春近が糧食として創製したといいます。
 のち京都に移ってから、顕如上人より、「わすれては波のおとかとおもうなり まくらにちかき庭の松風」の歌にちなんで、「松風」の名を賜ったということです。

 「わすれては」の歌、これは顕如上人が大坂にいたときのことを回想して詠まれたのでしょうね。海が近い大坂本願寺では、夜になると遠くに浪の音が聞こえたのでしょう。


 歴史家の疑問

 この松風の由緒について、疑問を抱いた研究者がいました。中世史家の瀬田勝哉氏です。
 瀬田氏は、「飢饉と京菓子-失われた創業伝説」の中で、次のような疑問を呈しています。

 (前略)私がさらに興味を持ったのは、由緒書の終わりに、屋号に並べて何の説明もなく書かれた「創業応永二十八年」の8文字であった。
 3代目大塚治右衛門春近が信長時代の人だとすると、1世代30年として、初代は60年からどうみても百余年前。だから創業を応永28年(1421)までひき上げるのは到底無理がある。(『増補 洛中洛外の群像』330ページ)
 

 こう思った瀬田氏は、応永28年(1421)とはどんな年だったかを考えていくのでした。

 その前年、応永27年は稀にみる日照りで、年がかわると天下は飢饉の様相を呈して、餓死者が数え切れなくなりました。幕府や寺院は食を与える施行を行いましたが死者はとどまらず、夏には疫病が猛威を振るいます。さまざまな祈祷が行われ、また伊勢の神が「はやり神」として喧伝されました。
 ようやく飢饉の収まった応永29年、五条河原で大施餓鬼が行われ、死者が追悼されます。

 このような時代状況に着目した瀬田氏は、練羊羹で知られる総本家駿河屋のことを思い出しました。駿河屋の創業もまた飢饉の時代だったというのです。
 氏は、ケシが鎮咳、鎮痛、下痢止めに効く漢方薬でもあったことや、味噌の保存性、呪性などにも思いをめぐらし、次のように締めくくります。

 とにかく亀屋陸奥の松風には、伝承といい、実際の味わいといい、非常食の影が濃い。
 憶測すれば、石山合戦[註・信長と本願寺の戦い]以前にも松風の前身は、非常食あるいは薬用食として実績があり、応永28年の飢饉疫病興盛に結びつく何らかの伝承を持っていた。それが石山合戦後、本願寺との結びつきが濃くなって、その部分が強く押し出されるようになり、以前の伝承は忘れられてしまう。そして意味不明のまま、創業年なるものが盲腸のように残ったのではないか。
 亀屋陸奥にしても駿河屋にしても、失われた創業伝説がきっとあったのだと思う。

 京菓子は、あまりに禅や茶との関係でのみ説かれすぎた。今、私たちの前に風雅な菓子として現われているものの前身には、もっともっと血みどろの、生きることに必死であった人々の知恵や願いがこめられていたのではないだろうか。(334ページ)


 一番最後のまとめは、ちょっと怖いですけれど、お菓子と飢饉が関係あるとは意外でした。石山合戦のときに創製されたという伝承より前に、飢饉の際に“プレ松風”が作られていたんじゃないか、という推理ですね。
 確かに、松風を口にすると、そんな歯ごたえ、味覚を感じます。




 亀屋陸奥(「松風」調進所)

 所在 京都市下京区西中筋通七条上る菱屋町
 営業 水曜定休
 交通 JR「京都」下車、徒歩約15分



 【参考文献】
 瀬田勝哉『増補 洛中洛外の群像』平凡社ライブラリー、2009年(原著1994年)


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