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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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嵯峨・清凉寺の釈迦如来は奥深い (その1)

洛西




清凉寺本堂


 三国伝来の釈迦如来像

 「都名所図会」(1780年刊)をみると、嵯峨の清凉寺の項は、次のように書き出されています。


 本尊ハ大聖釈迦牟尼仏の立像にして長五尺弐分、天竺・毘首羯磨天の作なり(中略)そもそもこの尊容は三国無双の霊仏にして釈尊在世にうつし奉りて生身の尊像なり


 江戸時代から、とても有名だった清凉寺の釈迦如来。嵯峨釈迦堂という通り名も、このご本尊に由来するのは言うまでもありません。
 上にも「三国無双」とありますが、この仏さまはインド・中国・日本と伝わってきたもの。

 お経には、次のような話が記されています。

 あるとき、お釈迦さまが忉利天におられる母・摩耶夫人に説法されるため、不在になった。優填王(うでんのう)たち信者は、それをさびしがって、仏師・毘首羯磨(びしゅかつま)に命じ、栴檀(せんだん)の木でお釈迦さま生き写しの像を作った。

 話の筋はお経によって異なりますが、およそこんなふうです。つまり、この像はお釈迦さまが生きているうちに造られた像であり、“最初の仏像”ということになります。
 いわゆる「優填王思慕像」というもので、のちにたいへん崇敬されてインドや中国でこれを模した像が多数造られました。

清凉寺の隠元の題額

 清凉寺の本堂には、宇治の萬福寺を開いた隠元禅師の額(万治2年=1659)が掛けられていますが、そこにも「栴檀瑞像」と記されていて、江戸時代の僧たちも、栴檀でできた得難い仏像と認識していたことがわかります。


 「五臓六腑」が入っていた!

 清凉寺のご本尊も、優填王思慕像を模した像のひとつです。
 東大寺の僧であった奝然(ちょうねん、938-1016)は、永観元年(983)、宋に渡ります。3年ほど宋にいるあいだ、五台山などの聖地を巡拝したのですが、揚州の開元寺に永らくあった優填王思慕像(当時、中国に複数あったうちの1つ)を模刻しました。その仏師は張延皎と張延襲の兄弟で、雍熙2年(985)の7月21日から8月18日にかけて台州で彫られたことが記録されています。1か月たらずで彫ったとは、かなりのスピードです。
 奝然は、翌年6月、この釈迦如来像や大蔵経などを持って宋を発ち、帰国します。寛和3年(987)、都に持ち帰り、蓮台寺に一時置かれたのち、愛宕山のふもと、いま清凉寺がある地に安置されることになります。
 つまり、清凉寺の釈迦如来像は中国製で、「三国伝来」といっても同一の像が3か国をめぐったのではないのですが、同じモチーフの像がインド ⇒ 中国 ⇒ 日本へと伝わったということなのです。

 この像を実際に見ると、日本で見慣れた仏像とは異なる雰囲気を感じます。
 ぴたっと正面を向いて、右手を挙げた施無畏印、左手を開いて下げた与願印。衣は両肩にかける通肩で、その着衣がぴったりと身体にフィットしていて、びっしりと襞が付いています。この衣の感じに圧倒されます。お顔は、割と素朴な印象です。
 桜の材で造られているそうですが、いちばん有名なのは、背中に穴が穿たれていて、その中にさまざまな納入品が入っていた、ということでしょう。その品々の中で、誰もが驚くのが「五臓」の模型です。
 その目録によると、胃・心・肝・膽・肺・肚・腎・腸・背皮などが収められています。綾や錦といった布製なのでソフトなものと思われます。いまは複製品を本堂や宝物館で見ることができます。こういったところが、「生身(しょうじん)」と言われる所以でもあるのでしょう。

清凉寺本堂 本堂には「釈迦生身如来」

 
 へその緒に託す思い

 けれども、もっと驚くべき品は、別のような気がしています。

 それは、小さな一枚の紙切れです。写真を見てもほとんど読めないのですが、こう書かれているそうです。

 表「承平八年正月廿四日の/ひつしの[  ]のときにむ」
 裏「まる[  ]とこ丸」

 承平8年は、938年です。その1月24日の未(ひつじ)の何とかの時に生まれた何とか丸(これは男児の名前)ということです。この紙片は、へその緒書きというもので、へその緒にゆわえてあった紙です。
 実は、同じ胎内に納められていた義蔵・奝然結縁手印状という文書に、奝然の生誕について記されており、そこには「天慶元年戊戌正月廿四日誕生、俗姓秦氏」とあります。承平8年は、5月に改元されて天慶元年になりました。つまり、へその緒書きにある生年月日は奝然のもので、納められたへその緒も彼のものということになります(昭和29年に納入品が発見されたとき、そのへその緒は朽ちたのか発見されませんでした)。

 奝然は入宋したとき46歳だったわけですが、それまで大事に自分のへその緒を所持しており、それを宋にも持って行って、製作した仏像の胎内に納めたということになります。

 私が不思議に思うのは、奝然はなぜ宋にへその緒を持参し、像に納めたのか、ということです。

 渡宋前から、製作する仏像の中に入れようと思っていたのでしょうか。
 おそらくそうではなく、残された記録からは奝然は宋にいるあいだに造像を思い立ったものと考えられます。

 一般に仏像の胎内には、仏舎利・経典・胎内仏・仏画・摺仏などが納められ、願文や結縁の人名を書いた文書なども納められます。奝然の釈迦如来像にも、結縁の人々の名が記した「繋念人交名帳」というものが納められています(おそらく現地で書いたもの)。
 奝然が自分の名を像の中に納めたいと思うのは当然として、さらにへその緒となると、それはどんな思いなのか。

 胎内に、遺骨や遺髪などを納入することは少なくありません。そこで想起するのは、例えば父母の遺骨を入れる例です。西大寺の興正菩薩坐像は、叡尊(興正菩薩)の生前に造られた寿像で、両親の遺骨が納められています。このことは、叡尊が遺骨を所持しており、その菩提を弔うために納入したと想像されます。

 へその緒は、子と母を結んでいたものです。
 奝然が入宋するとき、母は存命でした。奝然は年老いた母を置いて宋に渡ることに悩みます。大海を越えて入宋することは二度と母に会えず、孝行を果たせないことになるかも知れません。相談した奝然に対して、老母は宋に行くことを勧めます。奝然は涙し「我が母はこれ人世の母ならず、これ善縁の母なり」と思い至るのでした。
 願文に記されたこの話を知ると、おそらく奝然は母への思いを抱いて、へその緒を懐に入れて海を渡ったのだと想像され、また結縁のため母と自分を結んでいたへその緒を釈迦如来像の中に納めたのだと感じられます。

 もちろん、真実は奝然その人しか知る由もありませんが、ひとつの釈迦如来像からさまざまな想いがわき起こってきます。
 

清凉寺手水鉢





 清凉寺(嵯峨釈迦堂)

 *所在:京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町
 *拝観:境内自由 ※ただし、本堂400円、経蔵100円など
 *交通:市バス嵯峨釈迦堂前下車



 【参考文献】
 奥 健夫「日本の美術 513 清凉寺釈迦如来像」至文堂、2009年
 倉田文作編「日本の美術 7 像内納入品」至文堂、1973年
 『古寺巡礼 京都 39 清凉寺』淡交社、2009年
 「都名所図会」(『新修京都叢書』6、臨川書店、1967年)


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