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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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新京極の今昔を「都名所図会」で振り返る - 「ブラタモリ~京都~」 おさらい -





錦天満宮鳥居


 「ブラタモリ」、オンエア!

 1月6日(2015年)、3年ぶりにNHK「ブラタモリ」が復活し、タモリさんが京都を訪れて、3つの“復興プロジェクト”を探りました。

 そのうち、私は「新京極」編をご案内する機会に恵まれました。番組中、フリップで登場した「都名所図会」(1780年)を改めて掲載し、要点を振り返ってみたいと思います。

 新京極
  新京極(六角通から南を望む)


 「新京極」って、どんなところ?

 新京極は、三条通と四条通を結ぶ500mあまりの街路で、明治5年(1972)に開かれました。
 平安京の東端にあった東京極大路は、現在の寺町通に相当します。そのさらに東に開通したのがこの通りで、“新しい京極”という意味で「新京極」と呼ばれたのです。
 劇場や映画館などが立ち並ぶ京都随一の繁華街として、明治時代から賑わってきました。現在では、観光客向けの土産物店やショップに様変わりしていますが、その賑やかさは変わっていません。

 この通りの特徴を、手もとにある『新撰京都名勝誌』(1915年刊)で紹介しておきましょう。(現代文に改めています)

 新京極は、三条小橋の西2丁(約220m)ばかりのところにあり、寺町通の東を南に曲がって、四条通に達している。この場所は、元は誓願寺の境内に属していたので、「もと誓願寺」と呼んだが、明治5年、道路を開通し、寺町の古い名「京極」に対して「新京極」と名付けた。近年(明治末)、付近の場所をさらに開いて「第二京極」と呼んでいる。

 ここは、京洛第一の繁華街で、演劇、活動写真、浄瑠璃、軍談、落語の興行場から、酒楼、肉舗、珈琲店、球戯場などまであって、各種の店舗が立ち並んで、遊びに来る人が大勢おり昼夜雑踏を極めている。
 ここにある劇場は、京都座、明治座、夷谷座、活動写真館は、帝国館、歌舞伎座、朝日倶楽部、パテー館、中央館、八千代館、富士館、天活倶楽部があり、落語などの寄席には、芦辺館、笑福亭、第一勢国館、第二勢国館などがあって、東京の浅草奥山や、大阪の千日前と繁華を競っている。(231ページ)


 旧八千代館(WEGO)
  旧八千代館(WEGO)

 
 上知した寺社の境内に開通した新京極

 新京極が通された場所は、もとは寺社の境内地でした。
 明治初期、寺社領の上知(官に没収すること)が行われました。これは寺社の経営にとっては大きな打撃となったのですが、その土地が学校などの公用地として転用された例も数多くありました。新京極の開発も、寺社の境内地を活用したもので、

  ○誓願寺
  ○誠心院(和泉式部寺)
  ○西光寺(寅薬師)
  ○蛸薬師堂
  ○安養寺(さかれんげ)
  ○善長寺(くさがみさん)
  ・了蓮寺
  ○錦天満宮
  ・歓喜光寺
  ・金蓮寺(四条道場)

 といった寺社の一部が、新京極の通りになったのです(○印は現在もある寺社)。

 これを江戸時代の「都名所図会」(1780年)で見てみると、こんな感じになります。

 「都名所図会」より蛸薬師
  「都名所図会」巻2

 誠心院(左)から、寅薬師(中)、蛸薬師(右)あたりを描いた図。まだ新京極は出来ていません。
 画面の下の道路が、寺町通です。

 寺町通の脇(東側)には、中川(京極川)という小川が流れていました。そこに橋が架かっており、門をくぐると各寺の境内でした。

 そこに明治維新後、新たな街路が通されたのです。

 「都名所図会」より蛸薬師
  
 矢印が蛸薬師。
 ロケのとき、“無茶なことをしたもんだ”という話も出たのですが、確かにこの図を見ると、本堂の目の前に道を通したのですから、すごい話とも言えます。

 ちなみに、番組でお世話になった錦天満宮は、かつてはこんなに広々とした境内を誇っていました。

 「都名所図会」より錦天神
  「錦天神」

 川を渡ったところにあるのが、いまビルに突き刺さっている鳥居(この絵の鳥居からは建て替えられています)。
 ずいぶんな様変わりですね。


 誓願寺のあたりは……

 新京極の一番北にあった寺院・誓願寺(番組で「迷子しるべ石」が登場したところ)のあたりは、どうだったのでしょうか。

 「都名所図会」より誓願寺
 「誓願寺」

 広壮たる境内、右端には三重塔も見えます。
 それが、本堂の眼前、図で広場のようになっているところに街路が通されたのです。

 誓願寺古図(『新京極今昔話』)
  誓願寺の古図 (『新京極今昔話 その一』所収)

 江戸後期、天保頃の誓願寺周辺です。
 図の上が三条通。赤い矢印が、現在の新京極の入り口「たらたら坂」があるところですね。ここに、かつては北門がありました。
 新京極は南下して、本堂前で少し西へ曲がり(斜め矢印)、さらに南へ続いていきます。誓願寺前(六角広場)で新京極が曲がっている理由には諸説ありますが、上図を見ると、境内をなりゆきで通したため曲がったのかなとも思わせます。
 
  『新京極今昔話』
  『新京極今昔話 その一』

 この本の表紙には、「明治十年頃の誓願寺本堂附近」という写真が掲載されています。明治10年(1877)というと新京極が出来て間もない頃です。左端に写っているのは、芝居小屋の夷谷座でしょうか。のちピカデリー劇場になるところです。
 誓願寺は、幕末、蛤御門の変の大火で伽藍、塔頭を失いました。その後、大通寺(南区)の本堂を移築して写真のような形になりましたが、このお堂も昭和7年(1932)に焼失してしまいます。

 明治維新から今日まで、わずか150年ですけれど、実に激しい変遷でした。
 新京極という街で、芝居や活動写真に笑い涙し、神仏に祈りを捧げ、食堂で胃袋を満たした無数の人々。その記憶が今も新京極の宙に漂っている、そんな気がします。




 新京極

 所在 京都市中京区桜之町ほか
 交通 地下鉄「京都市役所前」、阪急電車「河原町」下車、すぐ



 【参考文献】
 「都名所図会」1780年
 『新撰京都名勝誌』京都市役所、1915年
 田中緑紅『新京極今昔話 その一』京を語る会、1959年
 京都市編『京都 歴史と文化 2 【宗教・民衆】』平凡社、1994年


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コメント

ブラタモリを見ました。
どちらかというと歴史は感心がないですが、奥が深いなと思いつつ見てました^_^;。

Re: タイトルなし

ありがとうございました。
4月から、ブラタモリが本格スタートするそうですので、そちらでも各地の歴史にふれてみてください。

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