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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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山脇東洋が初めて解剖を行った六角獄舎跡に行ってみた





山脇東洋観臓之地碑


 六角通を進むと…

 前回、京都の医師・山脇東洋が人体解剖を行ったことを紹介しました。
 宝暦4年(1754)のことで、日本で初めての試みでした。

 山脇東洋の墓地は、伏見区の真宗院や中京区の誓願寺にあり、前回の記事では誓願寺にある東洋夫妻の墓所を取り上げています。 記事は、こちら! ⇒ <日本最初の解剖を行った医師・山脇東洋の墓所は、新京極の裏側、誓願寺墓地にある>

 今回は、彼が解剖を行った通称「六角獄舎」の跡を訪ねます。

 六角通は、三条通の1本南です。
 三条通は、堀川通から千本通までアーケードの商店街になっていますが、六角通は細い静かな通りです。

 六角通

 西に進むにつれて寺院が増えてきます。

  六角通

 古い仁丹の町名表示板を見ると、「下京区」と書かれています。
 昭和4年(1929)に中京区ができるまで、ここは下京区だったわけです。

 さらに進むと、道が少々カギの手に曲がります。
 
 六角通

 左手にマンションなどが見えてきて、ここが今日の目的地です。
 向こうには、武信稲荷神社の杜が見えます。

 武信稲荷神社
  武信稲荷神社


 六角獄舎の面影は…

 江戸時代の絵図を見ると、民家の建つ市街地はこのあたりで終わっています。その西は、田んぼ。南側には高槻藩邸がありました。
 おそらく用のない人は来ない、ひっそりとした場所だったのでしょう。牢獄を作るのにふさわしい場所という気もします。

  六角獄舎跡 六角獄舎の跡地

 現在は、更生保護施設があり、用地利用の歴史性を感じさせます。
 『京都市の歴史』には、六角獄舎について、次のように説明されています。

 京都御役所向大概覚書所収の図面によれば、六角通南、蛸薬師通北、神泉苑町通西にあり、獄舎の東側には浄土宗如来寺がある。これは現因幡町西側で、現京都感化保護院の場所である。
 宝永5年(1708)3月の大火によって、以前小川通にあった牢屋敷が焼亡したため、翌6年、この地に新しい牢を建てたものである(京都御役所向大概覚書)。幕府側の正式名称は三条新地牢屋敷であるが、六角通に面していたので「六角の獄舎」とよばれた。(820ページ)


 その入り口に、史跡を示す碑が2本、建っています。

  山脇東洋観臓之地碑

 左は、この獄舎に囚われていた志士・平野国臣らが幕末に殺害されたことを示す碑。
 そして右の方には、「日本近代医学発祥之地」と記されています。


 「観臓之地」碑

 山脇東洋観臓之地碑

 門内には、平野国臣らを悼む「殉難勤王志士忠霊塔」(右)と、「山脇東洋観臓之地」碑(左)が並んで建っています。
 観臓之地碑は、表面を磨かれた御影石でできています。碑の台座には、東洋の行った解剖の意義などが記されています。

 山脇東洋観臓之地碑

 山脇東洋観臓之地碑

 大意は、以下の通りです。

 宝暦4年(1754)閏2月7日に、山脇東洋らは京都所司代の許しを得て、この地で日本初の人体解剖を行った。江戸の杉田玄白らに先立つこと17年である。その記録は5年後に「蔵志」としてまとめられた。
 実証的な科学精神を医学に取り入れた初めで、日本近代医学がめばえるきっかけとなった。山脇東洋の偉業を讃えるとともに、解剖された屈嘉の霊を慰めるため建碑する。

 昭和51年(1976)に、日本医学会などにより建てられました。
 この趣旨を読むと、先ほど「日本近代医学発祥之地」と書かれていた理由が分かります。古医方の四大家の一人としてならした山脇東洋は、従来の五臓六腑説にあきたらず、自ら人体を腑分けすることを望んだのでした。


 腑分けされた人々

 碑文には、「観臓された屈嘉の霊をなぐさめる」と記されています。この「屈嘉」とは、そのとき解剖された男性の名前です。
 屈嘉という男は38歳でしたが、凶悪な強盗犯で、六角獄舎につながれていました。その罪状から、西土手の刑場で斬首に処されます。
 処刑後、遺体は獄舎に戻され、そこで解剖が実施されました。東洋らは、それを観察、描写し、記録にとどめたのです。
 「蔵志」には4枚の解剖図が掲載されていますが、人体の全容を記した図には首が付いていません。これは斬首体を解剖したからでしょう。明瞭な理由を知らないのですが、このあとも解剖される遺体は斬首されたものに限られていたようです。
 
 山脇東洋と子息、弟子らが解剖した遺体は、幕末までに14体に上りました。
 その人々の戒名は、誓願寺墓地にある解剖供養碑に刻まれています。

 山脇社中解剖供養碑

 山脇社中解剖供養碑
   解剖供養碑(誓願寺墓地)

 右上に記された利剣夢覚信士が屈嘉の戒名です。ここにある「夢覚」の語は、迷妄の中にあった人体の謎を解いてくれた、すなわち夢から覚ましてくれた人、という意味だといいます。
 
 14人には4名の女性も含まれています。
 いずれの戒名にも、「剣」や「刃」の文字が入っていて、これは解剖の刃によって腑分けされたということを示すものなのでしょうか。

 東洋は、最初の解剖の1か月後、屈嘉の慰霊祭を行いました。
 そして、「蔵志」の附録として「夢覚[屈嘉の戒名]を祭る文」で、その思いを語っています。

 斬死者の遺体を引き受けた東洋らは、「寸絶余すところなき」ほどに、つぶさに解剖を行いました。その成果は大きなものでしたが、思えば屈嘉とは生前、一面識もありません。その彼が、自分たちの積年の疑問を晴らしてくれる功労者となったのです。
 このことに畏敬の念を払った東洋は、誓願寺の随心庵に位牌を安置し、その後も月命日の供養を行い続けました。

 東洋と屈嘉。実に不思議な縁です。
 ひと月目の供養の祭文でも述べられているように、生前の屈嘉のことは何も知らず、また死後の彼は斬首されたためにその顔を見ることもできませんでした。その人が自分たちの学問を大きく進める恩恵を与えてくれるとは。

 六角獄舎跡の碑と誓願寺墓地の供養碑を見ると、人の生と死の尊さ、不思議さに首を垂れる思いです。

 山脇社中解剖供養碑
  山脇東洋墓所と解剖供養碑(誓願寺墓地)




 六角獄舎跡

 所在 京都市中京区六角通神泉苑西入ル因幡町
 見学 自由
 交通 地下鉄「二条城前」、JR「二条」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 山脇東洋「蔵志」1759年(早稲田大学図書館古典籍総合データベース)
 『日本歴史地名大系27 京都市の地名』平凡社、1979年
 富士川游『日本医学史綱要 1』平凡社、1974年
 森谷尅久『京医師の歴史』講談社現代新書、1978年
 中山清治「解剖学の先駆者山脇東洋の史跡を訪ねて」(「東京有明医療大学雑誌」vol.1、2009年 所収)


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