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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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【新聞から】 通し矢禁止の古文書発見

洛東





「三十三間堂の通し矢、秀吉治世に禁止令」 京都2012年10月19日付

 三十三間堂(蓮華王院)というと、通し矢が有名です。現在では「大的大会」と称して、お正月に新成人の男女が弓を射る行事として知られていますね。

三十三間堂の通し矢

 寺伝では、天正年間(1573-1592)に今熊野観音寺の別当が行ったところ、たちまち流行したとも伝えられています。江戸時代に盛んに行われ、慶長11年(1606)以降の記録「矢数帳」も残されています。
 紀州と尾張の強者たちの対抗など、その記録の話題には事欠きません。慶安の修理では、お堂に矢が刺さるのを防ぐため、西庇の下の柱などに金属製のガード板(鎧板)が付けられました。

三十三間堂

三十三間堂 鎧板

 ちなみに、江戸時代は、現在の大的大会とは射る方向が逆で、西庇の縁に座って、南から北へ向けて射ていました。庇の下で射るから難しかったし、建物にも刺さったのです。

 京都新聞の記事は、古文書が発見され、豊臣秀吉の頃、流行する通し矢の禁令がたびたび出ていた、というものです。

 記事は、「古文書は、秀吉の家臣で京都所司代を務めた前田玄以が、三十三間堂を管理する妙法院(東山区)に宛てた書状。長岡京市の旧家で保存されていたのを同市教委の馬部隆弘文化財技師が分析し、前田玄以の花押などから本物と判定した。前田玄以が書状に用いた肩書から文禄5(1596)年に書かれたと推定されるという。/書状は「於三十三間弓射申之由承候」との書き出しで始まり、弓矢を射るのをすでに禁じているが、それでも射る者があれば通報するよう求めている。「連々御法度」という下りから、繰り返し禁止したことがうかがえる」としています。

 慶安の修理(1651年竣工)のとき鎧板でガードしたわけですが、その半世紀あまり前から大流行だったとは、柱や壁など、矢が刺さってボロボロだったのでは!? と心配になりますね。




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