10 | 2017/11 | 12
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -
MENU

NEW ARRIVAL

PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

鴫原一穂という詩人が描いた戦後の裏寺町風景は、哀愁の色を帯びている





スーパーホテル


 「月刊京都」と鴫原一穂

 現在刊行されている雑誌「月刊京都」は、戦後、編集者であり詩人でもある臼井喜之介によって創刊されました。
 臼井喜之介と雑誌「京都」については、以前書いた記事を読んでいただくとして(記事はこちら ⇒ <臼井書房の書物たち>、および <1950年に創刊された雑誌「京都 観光と美術」は、「月刊 京都」の前身>)、今回はある記事の紹介です。

 「裏寺町風物詩」。
 鴫原一穂という人が書いた3ページほどのエッセイです。
 文とともに、3枚のスケッチが挿図になっていて、どんな内容か読んでみたのです。

 その前に、鴫原一穂という人は、どんな人なのでしょうか?

 「しぎはら かずほ」。詩人で児童文学者。断片的な情報なのですが、明治42年(1909)生まれ。平安高校(現・龍谷大平安高校)で教鞭を取られたらしく、同校の校歌はこの人が作詞しました。晩年は、岡山に住んだようです。
 いくつか著作もあり、戦後すぐに詩集『好日詩片』(昭和21年)を出していますが、これは臼井喜之介の臼井書房から刊行されています。臼井とは知己だったわけですね。

 その詩人が書き、描いた風物詩。
 どんな内容なのでしょうか?


 哀愁ただよう「裏寺町風物詩」

 戦後の復興が緒につき始めた昭和26年(1951)5月20日。
 詩人・鴫原一穂は、友人の臼井喜之助と四条河原町の交差点にいました。

 えり善の横を裏寺へまがろうとするぼくを呼びとめたものがある。安物のおもちやだ。ケントウをする人形のおもちやのシヤカ、シヤカという音だつた。
 (中略)
 二軒店をならべた射的屋を横目でにらんで「おれはこいつをやるのがすきだ」といつたら、一ぱいのんでからにしようとキノスケはいつた。ただすきだといつただけなんだ。(「月刊京都」昭和26年7月号、以下同じ)


 鴫原は、四条河原町の北西角にいて、現在もある呉服店・ゑり善の横の路地を曲がろうとしたのです。
 いまでは「拳闘」など死語に近くなりましたが、露店のボクシングをする人形が音を立てて動いており、射的の屋台が並んでいます。

  うすさま辻子
  ゑり善の横「うすさま辻子」

 ふたりが曲がって行った路地が、この道。
 今もある烏須沙摩(うすさま)辻子。かつて、このあたりにあった大龍寺に祀られていた烏須沙摩明王にちなんだ名前です。
 
 鴫原は言います。「一宇の堂があつて「うすさま明王」とカンバンがぶらさがつているのを「うずまき明王」と読んだら連れがちがうといつた。」
 
 「うすさま」なんて馴染みにくい。「うずまき」と読むのも頷けます。

 この辻子のことは、とてもおもしろいので、以前まとめたものをどうぞ。 記事は、こちら! ⇒ <四条河原町の喧騒の中に「烏須沙摩辻子」はあった>

 裏寺は大衆横丁ではあるが、大衆横丁ともちがう。哀愁がある。都会の哀愁はたそがれとともに濃くなりそめて、かなしいインテリたちをしつとりとぬらす。

 鴫原一穂「裏寺町風物詩」

 烏須沙摩辻子を抜けて、北を向いたところのスケッチ。
 一番奥の大きな建物は、映画館・京極大映(当時)です。

 裏寺町

 現在の同じ場所。
 右(東側)は、複合ビル・河原町オーパ(OPA)になり、左(西側)の呑み屋「たつみ」なども、しっかりした建物に変りました。奥には、スーパーホテルが建っています。ここは、ひと昔前までは、京極東宝でしたね。

  スーパーホテル
   スーパーホテル

 鴫原は、「西側にはわるいが」と言いながら、烏須沙摩明王につらなる通りの東側の店名を記していきます。

 「その」(かす汁・串かつ・おでん)
 「田中」(遊技場)
 「ひさ家」
 「貞楽」
 「若茶屋」
 「貿源」(「ア、フオレン、トレーダーと横文字」)
 「岡田」(洋服古着)
 「奴」(トンカツ・ホルモン焼)

 「「奴」のマダムの切れの長い黒い眼は京都の顔ではない。知らぬ顔してスケッチしようとしたがかけなかつた。」

 これらの店も、すでにないわけです。


 裏寺町の地図

新京極図(『新撰京都名所図会』より)
 竹村俊則『新撰京都名所図会 4』より、裏寺町界隈
(鴫原らは、赤い矢印の烏須沙摩辻子を入って行った)

 参考のために、50年余り前の裏寺町の地図を掲げておきましょう。昭和37年(1962)出版された本の挿図ですから、鴫原の随筆より10年ほど後のものです。
 竹村俊則氏が克明に記録されています。

 鴫原たちは、四条河原町の北西にある路地(赤い矢印)を上がります。ここが烏須沙摩辻子です(地図中の記載には誤りがあります)。
 辻子は大龍寺に突き当り、その北側は「寺町」らしくお寺が続いています。
 ここに上記のお店があったというのですから、寺の敷地沿いに仮住まい的な店舗が並んでいたのでしょうか。
 

 柳小路の店々

 裏寺町の一本西の路地が、柳小路。上の地図には「柳小路食飲街」とあります。
 いまもあって、独特の雰囲気を醸し出していますね。

  柳小路
  柳小路 南から北へ

 詩人は、柳小路の北の口に立って、南を眺めます。頭上の案内灯には、店名が記されていました。

 「金剛」
 「時代」
 「栄月」
 「静」
 「こがね」
 「宝亭」
 「寿」
 「みやこ」
 「そして」
 「ちどり」
 「多摩川」
 「芝居茶屋」
 「呑兵衛」
 「乙女茶屋」
 「三日月」
 「八好」
 「十字星」

 17の店。これですべてなのでしょうか。
 そして、いま何軒残っているのでしょう。

  鴫原一穂「裏寺町風物詩」

 このうちの「静」は、いまも名物店として知られています。柳小路の中ほど、東側にあります。
 関西には少し珍しい縄暖簾の掛かった店。

 「静」と一字かいてあつても「しずか」と呼ぶそうだ。二三度ぼくもきたことがあるが、その最初は二三年前やはり連れがつれてきてくれたのであつた。この間、文芸首都の会のかえり常田夫人と比沼氏と田中と四人で、静の二階でのんでいるうちに隣りのテーブルの二人と一緒になつちやつて、はてはその二人を四条小橋下ルの「山小屋」へ案内してしまつた。「山小屋」は少し感じのいいバーだ。
 ぼくは静のシロにいいごきげんになつてしまつたものらしい。先生だの学生だの詩人だの課長さんだの、およそあらゆる階級に愛されるふしぎな「静」の家だ。あぶらでくろくよごれた縄のれんから首を出すどれもがインテリであるかインテリであると思われたい男らしい。なにがそうさせるのかぼくは知らない。マダムの、あの写楽描くところの眼がひきつけるのかな。


 私も、初めて学生時代に先生に連れられて「静」に来て、数十年後の今も、行きたいという大阪の人などがいれば一緒に行きます。知人のKさんとも行ったし、Jさんとも行きました。彼らもやっぱり「インテリであるかインテリであると思われたい男」なのでしょうか? なんとなく、わかる気がします。

 それにしても、写楽が描く女性のようなマダムとは?
 この記事に載せられた挿図にはキャプションがないのだけれど、この女性なんでしょうか。

  裏寺町

 ちなみに、この随筆が載せられた「月刊京都」のこの号は、“京の女”の特集でした。
 表紙は舞妓さんですね。

  「京都」表紙




 裏寺町
 
 所在 京都市中京区四条河原町西入上ル中之町
 店舗 居酒屋など多数
 交通 阪急電車「河原町」下車、徒歩約3分



 【参考文献】
 「月刊京都」第10号(昭和26年7月号、白川書院)
 竹村俊則『新撰京都名所図会 4』白川書院、1962年


スポンサーサイト

コメント

非公開コメント