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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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池のほとりの東寺弁天堂は、お堂の彫り物と花頭窓が見どころ





東寺弁天堂


 変貌してきた東寺の伽藍

 東寺といえば、平安京以来の寺院で、空海が賜った真言宗の総本山です。
 つまり、1200年の歴史があるわけですが、その間に伽藍は焼亡などによって大きく変化してきました。いまでは平安時代の面影をしのぶことは、なかなか難しくなっています。

 しかし、そのことが逆に、人々とともに息づいているお寺という雰囲気を醸し出して、心地よいのですね。
 気になるのは、広い境内の中に、弘法大師の信仰とはちょっとずれた神仏が祀られていることです。
 なかでも、七福神がいくつか祀られていることが注目されます。御影堂のある西院エリアに毘沙門天と三面大黒天、北大門の外に弁財天が祀られています。これらは単独のお堂を持っています。

 今回は、弁天さんを取り上げてみましょう。


 池のほとりにある弁天堂

 北大門を出ると、細長い蓮池があります。

 東寺弁天堂

 池は、門外の東西に広がっています。その東部分のほとりに弁天堂が建っています。

 東寺弁天堂
  弁天堂 (北から望む)

 桁行三間、梁間三間、入母屋造の小さなお堂です。

 東寺弁天堂

 東寺弁天堂

 『東寺の建造物』によると、弁天堂の創建は詳らかではないそうですが、現在のお堂は天保年間(1830-1844)の建築だそうです。
 唐破風の拝所が目を引きますが、これはなんとなく後付けのような気がしています。

 東寺弁天堂

 後から付けたとしても、幕末か明治時代のものではあるでしょう。


 彫刻も見どころ!

 その唐破風の下は、念入りに彫り物で飾られています。

 東寺弁天堂

 大瓶束の左右に龍、蟇股には宝珠。少し平面的な印象です。

 東寺弁天堂

 東寺弁天堂

 木鼻には、立体的な獅子を。玉眼ですね。

 東寺弁天堂
  手の揃え方が可愛い!


 池に面して花頭窓を

 弁天堂は、西を向いて立っています。
 南面は、舞良戸(まいらど)をはめています。さすがに地味な印象がします。

 東寺弁天堂

 一方、北面は少し違います。

 東寺弁天堂

 舞良戸に加え、センターに花頭窓を持ってきています。
 やはり、池を意識して窓を開けているのですね。

 弁天さんは、インドではサラスヴァティーと呼ばれる河の神。日本では、「弁才天」が「弁財天」ともなって、「財」をもたらす神さまとして崇拝されてきました。
 念のため、弁財天について宮田登氏の解説を引いておきましょう。

 弁天さんといえば、福神の中でもとりわけ美しい女神だと思われているし、片手に琵琶を持ち、右手でこれを弾奏している姿から音楽の神だとも思われている。一方福の神でもとくに金銀財貨をたくさんもたらしてくれる存在とも考えられ、銭洗弁天などの名称もある。
 弁天さんの本名は、弁才天であるが、妙音天、美音天の名もあり、弁才と音楽を司る天部の神として知られる。
 本来インドの土着の神格であり、サンスクリットで Sarasvati という。インド神話には、河川の神として登場する。(中略)
 このインドの民間の神を仏教は吸収して天部の神に位置づけたのだが、そのときには、弁才を備え、福と知、長寿と財宝を与え、かつ災厄を除く天女だとしている。 (「弁天信仰」)


 東寺の弁天堂では、なかにおられる弁天さんが池を見られるよう、窓をうがったのでしょう。こう考えると、北面(池側)にだけ窓がある意味が理解できます。

 ところで、水にかかわることでは、このお堂の脇に井戸があったといいます。
 昭和8年(1933)に出版された井上頼寿『京都民俗志』には、次のように記されています。

 東寺弁才天閼伽[あか]井
 弁天堂の南に切妻の建物があり、甕[かめ]の中に水がためられてゐる。『閼伽場』の額があり、御供の水に用ひられる。(29ページ)


 この閼伽場の建物は現在はないようですが、このあたりで井戸水を汲んでいたとは興味深いことだと思います。


 もとは西の門からお詣り

 いま、このお堂には、北の橋から渡って来てお詣りするか、南の境内から小門をくぐってお詣りするようになっています。
 橋は、昭和9年(1934)の弘法大師1100年御忌の年に架けられ、それまではありませんでした。
 では、どこから参拝したかというと、北大門の脇にある西向きの門から入って来たのです。

 東寺弁天堂

 この門を開けると敷石の参道があり(現在は作業小屋になっている)、弁天堂に至ります。
 『東寺の建造物』に掲載された明治時代の複数の境内図にも、この門があり、鳥居があり、弁天堂が画かれています。
 おそらく戦前は参拝者が多かったのでこちらからお詣りしていたものが、北に橋が出来たので、そのルートに変更されたのでしょう。

 一帯には玉垣が整備されており、近辺の商業者から大阪の人に至るまで、幅広い信仰を集めていたようです。

  東寺弁天堂

 上の玉垣には「七条館 長谷川弁次郎」とあります。地元の映画館主でしょうか。伏見の侠客・勇山の名もあって、さまざまな人が寄進しています。
 東寺の中では、ひっそりとした一画ですが、時折お詣りの方も訪れて、根強く信心されているさまがうかがえます。

 最後に、ちょっとした疑問をメモしておきます。
 大正5年(1916)に編纂された『東寺沿革略誌』は、昭和9年(1934)に再刊されました。
 そこには、弁天堂は次のように記されています。

  弁天堂
 本尊弁財天像  弘法大師御作  一躯
 創建年代は未詳。現存の建物は、天保年中に建立せしものなり。北弁天堂、梁行二間、桁行三間の建造物は大正六年澤島清太郎の発願にて創建。(73ページ)


 なぞは、「北弁天堂」です。
 大正6年(1917)に、澤島清太郎という人の発願で建てられたといいます。梁行三間、桁行三間は、本書の記述では柱間ではなく実寸を示しているようです。
 「“北”弁天堂」というくらいですから、それまでの弁天堂の北方に建設されたのは疑えません。では、どこに?
 現在の弁天堂の北側はすぐ蓮池で、池の向こうには太元宮(昭和4年=1929建立)が建っていて、スペースはありません。
 では、もっと離れた場所に建てたのでしょうか?

 もしかすると、現存の弁天堂が「北弁天堂」で、南側に元の弁天堂(天保に建立)があったのでしょうか?

 今、これを解く手掛かりがないのですが、弁天堂周辺の空間を観察すると、いくつも納得いかない点があります。しかし、それは後日の課題にしておきたいと思います。




 東寺(教王護国寺)弁天堂

 所在 京都市南区九条町
 拝観 境内自由
 交通 近鉄「東寺」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 『東寺沿革略誌』教王護国寺事務所、1934年
 『東寺の建造物』東寺(教王護国寺)宝物館、1995年
 宮田登「弁天信仰」(『民衆宗教史叢書 20 福神信仰』雄山閣出版、1987年所収)
 井上頼寿『京都民俗志』西濃印刷株式会社岐阜支店、1933年


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