04 | 2017/05 | 06
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -
MENU

NEW ARRIVAL

PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

60年前、小御所を燃やした打ち上げ花火は、京都の伝統をいかに守るかを考えさせる





京都御所


 昭和29年8月16日の夜の出来事

 連日真夏の暑い日が続き、その日も京都市の天気予報は、「東の風、晴れ、ところによりにわか雨」となっていました。
 うだるように暑く、午後3時には温度計は34.6℃を記録しました。

 昭和29年(1954)8月16日。
 夜には大文字五山の送り火が灯される日で、8時10分に「妙法」から点火を始める予定になっていました。

 夕方になると、鴨川の河原には大勢の人たちが集まってきました。
 この日の晩、鴨川の丸太町-三条間の河原で花火大会が行われるためです。
 打ち上げ点は、二条大橋の上流と下流の2か所に設けられました。河原は、約5万人という観衆で立錐の余地もない混雑になりました。午後7時から約350発の打ち上げ花火が夜空に開き、午後9時40分頃まで続きました。

 8時すぎからは、予定通り、五山に火が灯り、市内各所で多くの人たちが送り火を見守りました。

 鴨川
  鴨川の河原(御池-三条間)


 小御所から出火

 送り火も花火大会も終わり、静寂が戻った午後11時頃。
 御所の南に住むSさんは、孫の「火事や」という声に驚き、外に飛び出しました。北を見ると、御所から火の手が上がっているようです。駆けつけると、猛烈な火柱が天を焦がしていました。

 消防車も集まってきましたが、御所の門は清所門1か所しか開いておらず、容易に中に入ることができません。 
 御所内では、紫宸殿の東北方にある小御所(こごしょ)が闇を照らすように燃え上っていました。

 小御所

 それをさかのぼる午後11時前。御所の当直だった宮内庁職員Hさんは、夜警の巡回を行おうとしていました。当直室を出ると、小御所の屋根の南側が真っ赤に燃え上っているのが見えました。急いで非常ベルを押し、火事を知らせました。

 同じ頃、御所から北東に約2㎞離れた左京消防署の望楼からも、御所の方向で煙が上がるのが認められていました。同署では、3分後に出動。御所へ駆けつけました。

 このように、当直の宮内庁職員や皇宮警察、そして市内全域から出動した消防車らが懸命の消火活動に当たりました。しかし、隣接する御学問所や紫宸殿への類焼を防ぐのが精一杯で、約30分後、火は小御所を焼き払って鎮火されました。

 小御所は、安政2年(1855)の造替で建てられたもので、築100年。幕末に、大政奉還後の徳川家の処分を討議する「小御所会議」が行われた場所として知られています。

 御所の建物は、江戸時代に何度も焼けて建て替えられていますし、戦時中の建物疎開で取り払われたものもあります。しかし、小御所は幕末のものとはいえ、貴重な文化財、史跡であるに違いなく、無念の焼失となったのでした。


 火災の原因をめぐる食い違い

 それから60年。
 これまで私は、“小御所は花火が原因で焼失した”と、簡単に知っているだけでした。今回、少し気になることがあったので、当時の新聞を繰ってみました。参照した新聞は、昭和29年(1954)8月~9月の京都新聞、朝日新聞(大阪版)、読売新聞(全国版)です。

 まず、火災翌朝の読売の記事(リード文)です。

 京都小御所全焼す
  紫宸殿、延焼まぬかる
【京都発】16日午後10時56分 京都市上京区京都御所(事務所長石川忠氏)内小御所天井付近から出火、連日の炎天続きで乾燥していたため火の回りが早くたちまち炎に包まれ、市消防局から特別出動で25台の消防車がかけつけたがひわだ(桧皮)ぶき、ヒノキづくりの小御所100坪を全焼、16日午後11時25分鎮火した。同建物の廊下続きの南側に紫宸殿があったが延焼をまぬかれた。


 全国版のせいか、社会面での扱いです
 記事は出火原因について、次のように続けています。

 出火原因につき京都市消防局および同警察本部では徹宵調査しているが、この夜出火地点から約2000メートル離れた鴨川丸太町-三条間で大文字花火大会が行われており、京都御所の衛士および皇宮警察官らは
 「出火時刻寸前風船のような火の塊が小御所屋根上にふりかかりすぐに燃え上った。(後略)」といっている。(読売7月17日付朝刊)


 このように書き、花火打ち上げ現場では「南方に風が吹いていた」ため、北へ約2キロ離れた御所に火が飛ぶことは考えられない、と強調しています。

 一方、地元紙の京都新聞は、次のように書いています(リード文)。

 昨夜、京都御所小御所焼く
  約百坪、瞬時に烏有
    花火落下サンの火から?
  安政年間に造営され古都京都が誇る御所内小御所(こごしょ)が“大文字送り火”の昨夜全焼した。原因は同夜加茂川原で行われた読売新聞社主催の花火の飛火からとみられている。(京都7月17日付朝刊)


 こちらは一面トップです。
 火事の原因については、「原因について市警本部および市消防局で調査しているが、同日午後7時から加茂川原で行われた読売新聞主催の花火大会の花火の落下サンのさんが20数個御所内に風でとんでいるのでそれが小御所の屋根にとまりそれから燃え移つたものとみられている。」としています。

 8月16日の花火大会の主催者は、読売新聞社でした。
 そのため、火災原因について、読売では花火説を否定していますが、京都や朝日など他紙では、パラシュートの付いた落下傘花火が火事を引き起こしたと考えたのです。
 読売の小林京都支局長は、花火大会の終了が9時40分、出火が10時50分から11時の間で、東北東の風だったと聞いているので、絶対に花火ではないと述べています。

 新聞記事を注意深く読むと、読売は17日朝刊の第一報では、花火大会が自社の主催だとは一言も触れていません。ようやく、同日夕刊に、「当夜加茂川で行われた大阪読売新聞社主催の大文字花火大会の花火の飛火からとみる向きもあり」と、さりげなく自社主催であることを述べるにとどまっています。

 このあとも、読売では花火説に慎重な記事を掲載し、京都や朝日は「“花火説”益々濃厚」(京都8月18日付朝刊)などと、原因は花火であると強調しています。
 このあたり、新聞社同士の“泥仕合”の様相を呈し、マスコミの嫌な面を見せられるようでたまりません。

 結局、火事の原因は、当局によって花火と判断されます(8月21日)。
 
 ・午後8時から10時の風向きは、東南東から東であった(御所は打上げ点の北西1.5㎞にある)。
 ・現場付近から、落下傘の残骸を56個のほか、花火の破片が多数拾われた。つまり、落下傘(パラシュート)の付いた花火が風に乗って御所のある北西方向へ流されて落下したのである。
 ・目撃者22人が、ホースや手で揉み消したり、民家の屋根で燃えていたのを見ており、御所内を流れていくのを見た者もいる。
 ・皇宮警察が9時以降、火の付いた落下傘花火の糸を認め、消火している。
 ・現場検証の結果、出火点は屋根で、そこから棟木、天井板へと燃え移った。
 ・小御所には電気設備がなく漏電はありえない。
 
 このようにして、パラシュートのついた落下傘花火が風に流されて西北へ飛び、小御所の屋根に付着したのち、一定の時間くすぶってから、10時50分頃、火事を起こしたというものです。

 もっともな判断だと思いますが、読売新聞の小林支局長は、「市警側は現象面ばかりとらえて科学的な結論を出してはいない。これでは本当の原因は追及出来ないのではなかろうか」と、依然として花火説を否定し続けています。

 なお、刑事上は、11月に花火業者2名が業務上失火の疑いで起訴されました。
 主催者の読売新聞、花火の監督官庁である京都府などは不起訴となっています。

 また、小御所は昭和33年(1958)に再建されています。

 小御所
  昭和33年に再建された現在の小御所


 ほかにも行われていた市街地の花火大会

 新聞記事を読んでいて、2つのことが気にかかりました。

 ひとつは、当時はふつうに京都の市街地で花火大会ができたのか、ということ。
 鴨川の二条付近で打ち上げ花火をするなんて、現在では考えづらいですね。もちろん、こんな事故があったから、以後禁止されたのでしょうけれど、当時はふつうだったのでしょうか?

 朝日新聞によると(8月22日付朝刊)、その夏に京都で開かれた花火大会は、鴨川の河原で2度行われたほか、上賀茂、宝ヶ池、嵐山、中書島で行われていたといいます。
 鴨川の2度のうち、一度が問題の大文字花火大会(8月16日)でした。もう一度は、おそらく8月1日に行われた都新聞社主催の花火大会だったでしょう。

 この花火大会について、京都新聞が興味深い報道をしています(8月20日付朝刊)。
 8月1日の午後10時頃、中京区の木屋町三条上ル西側のすき焼き料理店でボヤ騒ぎがありました。3階の屋根に花火の落下傘が落ち、燃えたというのです。
 消防車が1台来たけれど大事ではなく、念のため、と水をかけて帰ったそうです。
 翌日、都新聞の人が二人あいさつに来たということでした。

 木屋町三条上ルですから、鴨川から100mほど、にぎやかなところです。
 当然、市街地で花火大会をやると、こういう危険が伴います。
 しかし、読売の花火大会でも分かるように、当時、京都府ではこのような花火大会を認めていたようです。


 大文字の夜に…

 いまひとつ興味深かったのは、次のことです。

 朝日や読売は、割に淡々と火災原因や小御所の復元について書いているのですが(“泥仕合”はともかく)、地元紙の京都は、少し論調が異なるのです。
 
 火事の翌17日の朝刊、社会面での見出しは、「花火に市民のいきどおり」と付けられています。
 そして、記事の中に、歴史学者・中村直勝氏の、

 「大文字の火は古来から“聖火”といわれ神聖視されていた。この晩に花火などを揚げたりまた観光という面から盆の16日以外の日に大文字に火をつけたりすると必ず異変があったものだ。それがこのごろではルーズになってこの始末だ」

 というコメントを載せています。

 「科学的」な出火原因を追及すべしという読売新聞からすれば、この中村博士の発言は“非科学的”極まりないでしょう。しかし、このあと京都新聞の紙上はこの種の論調で満たされていきます。

 18日朝刊の社説は、読売の言い分を「不謹慎」と強く否定した上で、このように述べています。

 不謹慎といえば、当夜は大文字の送り火である。夜空をこがす火の祭典に、全市民が挙[こぞ]って懐愁と祈りに送る夜、伝統と思い出に浸る宵なのである。
 しかるに何を好んで同じ夜、同じ時刻に花火の大会を行ったか。花火大会を開くこと自体には異論はない。しかし世界に比をみない京の名物、伝統の夜の同じ空と光りをかき乱すことはなかったと思う。


 また同日夕刊の「三十六峰」では、

 花火の火の粉で御所炎上。ご先祖の送り火をひっかき回して、仏さまのお怒りじゃ--と街の声。

 と、皮肉を通り越したような強烈な句を記しています。

 同じ社会面には、京都府商工振興課観光係の談話が掲載されています。

 五山の送り火は地元の人達の信仰心による奉仕で新しく住んだ人達はこの奉仕に参加しない[。]地元民としてはその横で花火を打揚げられることは感情上面白くないので別の日に行うよう[主催者に]延期を勧告したが、うまくゆかなかつた。

 このように、大文字の夜になぜ花火大会をやるのだ、という意見が紙面を占めていきます。

 紫宸殿


 戦後あいつぐ文化財の焼失

 実は、この数年前、花火による古建築の焼失が起きていました。
 昭和22年(1947)7月4日、奈良の春日野グラウンドで、占領軍によってアメリカ独立記念日の花火大会が行われました。その火が近くの東大寺本坊に飛火して建物が焼失したのです。

 また、花火ではありませんが、同年9月、大阪城内にあった紀州御殿(旧和歌山城二の丸御殿を移築)が、接収中のアメリカ軍の失火により、焼失しています。これなども残っていれば重文級の貴重な建築でした。

 そして、修理工事中に起きた法隆寺金堂壁画の焼失(昭和24年=1949年1月26日)、放火による金閣寺の焼失(昭和25年=1950年7月2日)など、重大な火災が起きています。
 戦後まもない頃には、いくつもの文化財建物が火災によって焼失し、法隆寺の火災があった1月26日は、文化財防火デーになりました。

 占領軍(アメリカ軍)による火災が典型的ですが、その施設、建物と縁の薄い人たちは、それを大切に守ろうとする意識が希薄になりがちです。
 奈良公園の打ち上げ花火は、小御所と同様のケースですね。もしかすると、アメリカ軍の人たちは、花火会場のすぐ先に東大寺をはじめとする神社仏閣があるとすら知らなかったのかも知れません。

 梅棹忠夫氏は、小御所の火災について、「もともと、京都市民は、火に対してはひどく神経質である。ひとりひとりの市民の、細心の注意の結果として、1000年の文化が生きているのである。/戦後、関西に進出してきたある新聞社が、宣伝のために市中で花火大会をやった。その結果、火がとんで、小御所がやけた。ひどい話である。京都という都での、都市生活の作法をあまりにもしらなさすぎる!」と憤っておられます。
 火災の7年後に書かれた文章ですが、怒り冷めやらぬという雰囲気です。

 その町のことを知り、その伝統を大切にするというのは、なかなか難しいことでしょう。
 なぜ主催新聞社が、わざわざ大文字の晩に花火大会を開いたのか? 今回、そこまで調べることはできませんでした。
 いろんな思惑があったのでしょうが、やはり京都市民としては、それはないかな、と思います。梅棹さんが怒るのも、やむを得ないだろうと感じました。




 小御所 (京都御所内)

 所在 京都市上京区京都御苑
 見学 春秋に一般公開(平常は申込制)
 交通 地下鉄「今出川」から徒歩約15分



 【参考文献】
 「京都新聞」「朝日新聞」「読売新聞」
 梅棹忠夫『梅棹忠夫の京都案内』角川書店、1987年(角川ソフィア文庫所収)


スポンサーサイト

コメント

非公開コメント