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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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祇園祭の山鉾に伝わる故事は、さまざまある -芦刈山、孟宗山など -





芦刈山


 山の飾りに頭を悩ます町衆たち

 祇園祭に参加する山鉾は、人形などの造り物で飾り付けられています。
 この造り物、今では固定化していますが、その昔は年によって工夫を凝らして変えていた場合もあったようです。

 狂言の「䦰(くじ)罪人」には、次のようなエピソードが記されています(あらすじです)。

 祇園祭が近付き、町内で、どんな山を出すか、相談が行われた。

 最初のアイデアは、大きな山をこしらえ、イノシシを作って、それに仁田四郎が乗っているのはどうだろう、というものだった。
 みんな、それがよかろう、と思ったが、太郎冠者が出てきて、“イノシシなんて変なものだ、仁田四郎が乗ったといっても面白いものじゃない”と否定する。

 次の案は、山を作った上に土俵をこしらえ、河津と俣野が相撲を取っているところはどうだろうか、というもの。
 またみんな賛意を示すが、太郎冠者は、“山の上で相撲を取るなんて聞いたことがない”と反対する。
 さらに、山に滝を作って、鯉の滝のぼりを作ろうという案には、毎年、鯉山の町が出しているといって、認めない。

 最後に、太郎冠者自身の案が出された。それは、山を2つこしらえ、そこに弱々しい罪人と恐ろしい鬼とを作って、鬼が罪人を責め立てるというものだった。
 主人は反対するが、結局、くじ引きによって太郎冠者が鬼となり、主人が罪人となって責められるのだった。 


 「䦰罪人」の筋は、狂言の流派によって違うそうです。
 上のあらすじは、林屋辰三郎『町衆』に紹介されているものによったのですが、これは和泉流の筋のようで、大蔵流では異なるようです。
 これらによると、室町時代には、すでに現在の鯉山や橋弁慶山(五条橋の牛若丸と弁慶)があったことが分かります。
 ちなみに、上記にある仁田四郎の猪退治や、俣野景久と河津祐泰の相撲は、いずれも「曽我物語」に登場する源平合戦時代のエピソード。河津祐泰は、相撲の決まり手「かわづ掛け」の由来となった人物とか。

 こんなふうに、当時の人々は、さまざまな物語や故事の中から、山の飾りを決めていたことがうかがえます。


 現在の山鉾にまつわる故事とは?

 林屋辰三郎氏は、このような山鉾の造り物について、次のように述べられています。

 いま、こころみに現在のこされた鉾山を通じて調べてみると、災厄消除の呪術的意味を純粋に代表すると思われる「長刀鉾」を除くと、おおむね二つのグルゥプに分けられる。その一つは信仰的内容のもので「月鉾」・「霰天神山」・「八幡山」・「南・北観音山」など九つだが、そこにはかならずしも祇園信仰とは関係のない天神信仰や八幡信仰がふくまれていて、このまつりが祇園社のまつりというよりは町衆のまつりであったことを示してくれる。
 他の一つは伝説的な題材のもので、日本の伝説では「橋弁慶山」をあじめ「保昌山」・「岩戸山」・「役行者山」など、中国の伝説では「函谷鉾」をはじめ「郭巨山」・「孟宗山」・「白楽天山」などで計十九を数えている。(『町衆』132-133ページ)


 こうまとめて、これらの伝説の世界は能を媒介として町衆にもたらされた、と解説しています。
 例えば、黒主山は謡曲「志賀」に、木賊(とくさ)山は謡曲「木賊」に由来するといった具合です。


 芦刈山のいわれ

  芦刈山
   芦刈山

 少し具体例でみてみましょう。
 芦刈(あしかり)山です。
 こちらも、謡曲に由来する物語を持っています。

 浦や川辺に生える植物・アシ(芦、葦)。
 芦刈山では、こんな造り物です。

  芦刈山

 これに翁をプラス。

  芦刈山 芦刈山
  
 左が現在の翁の人形で、享保7年(1722)のものだそうです。右が、かつての頭で、天文6年(1537)、仏師・康運の作です。
 右手に鎌を持っており、これで芦を刈ります。
 あわせると、こんな姿に。

  芦刈山

 この姿、難波(なにわ)の浦で芦を刈る男性の姿です。
 もちろん、ただ単に芦を刈っている翁ではなく、ここに至る長い物語があるのです。芦刈に関する物語は、謡曲をはじめ、さまざまあるのですが、ここでは「今昔物語集」に出てくる説話をあらすじで紹介しておきましょう。

 今は昔、京にとても貧しい男がいた。親兄弟も知人もなく、仕事はどこにいってもうまくいかなかった。その妻は若くて美しく、心優しい女だった。
 あるとき、男は思い煩って、妻に言った。
 「この世にいる限りはずっと一緒に、と思っていたが、日に日に貧しくなるばかり。夫婦一緒にいるのが悪いのかもしれない。別々に暮らしてみよう」
 妻は、
 「私はそうは思いませんが、あなたがそうおっしゃるなら、そうしましょう」
 と言って、互いに再会を約束して別れた。

 その後、妻は、ある人のもとで使われ、その人の妻が亡くなったので、後添えとなった。そのうち、その人は摂津守となった。
 一方、男はさらに落ちぶれていき、ついには京にもいられず、摂津の国に流れ、農夫となって人に使われていた。しかし、慣れない耕作や木こりはうまくできず、難波の浦に芦を刈りに行くことになった。

 同じ頃、摂津守となった人は、妻を連れて摂津の国に下ってきて、難波あたりに車を停めて供の者たちと野遊びをしていた。
 妻があたりを見ると、浦に芦を刈る者たちがたくさんいたが、その中にどこか心ひかれるような男がいた。よく見ると、昔の夫に似ているような気がする……
 なおよく見ると、間違いなく昔の夫だった。
 
 なんと情けないことだと思ったけれど、供の者に、その男を呼んでくるように言いつけた。
 男は何のことかと驚いたが、せかされると芦刈りをやめて車の方に来た。

 土で汚れた袖なしの単衣の、膝のところまでしかない粗末な出で立ち。顔にも手足にも泥がついて、汚いことこの上ない。おまけに、脚にはヒルがついて血を吸うから、血まみれだった。
 妻は、男に飲み食いをさせたが、ガツガツと食べる姿がまた情けない。

 かわいそうなので着物をやろう、と言って、一枚の書付けを添えて渡すことにした。
 そこに書いた歌。

  あしからじと思いてこそは別れしか などか難波の浦にしも住む
 (先々悪くなるまいと思って別れたのに、どうしてこんな芦刈りなどして難波の浦に住んでいるのですか)

 着物を受け取って、歌を読んだ男は、「なんと、これは昔の妻ではないか!」と気が付いた。
 そして、次のような歌を返した。

  君なくてあしかりけりと思うには いとど難波の浦ぞ住み憂き
 (君がいなくてはよくないのだと思うにつけ、いっそう難波の浦は住みづらく思われます)

 妻は、これを読んで、さらに悲しく思ったが、男は芦も刈らずに走り去ってしまった。


 「今昔物語集」巻30・第5、「身貧しき男を去る妻、摂津守の妻と成ること」のあらすじです。
 他の類話と違って、もとは京にいた二人が、偶然に難波で出会う筋になっています。

 それにしても、零落する男と立身する女という対比は、なんと残酷なことかと思えてしまいます。ラストも、救いのない終わり方で、今昔物語、これはきついですね。


 孟宗山は、心温まる話

  孟宗山
   孟宗山

 芦刈説話はいろいろあり、謡曲では、二人がまた結ばれるという筋になっています。
 このまま終わるのも何なので、少し心温まる話を見てから終わりにしましょう。
 孟宗山です。

 こちらは、中国の孝行物語「二十四孝」の中の一話です。
 江戸時代によく読まれた「御伽草子」に収められた「二十四孝」から引用しておきましょう(大意です)。

 孟宗は、幼くして父を失って、今は母を養っていた。
 母は老いて病んでおり、食べ物の好みもその都度に変わって、とんでもないものを食べたいということもあった。
 あるとき、冬であるのに、タケノコを食べたいと言い出した。
 孟宗は、竹林に行ったけれども、雪深い季節なので、タケノコを採ることが出来なかった。途方にくれて、天に祈った。
 すると、突然、大地が開けてタケノコがたくさん生え出てきた。
 孟宗は、たいへん喜んで、タケノコを採って家に帰った。汁物にして母に食べさせると、それを食べた母は病も治って、末長く暮らしたという。
 これもひとえに、孝行の深い心に対して、天が与えたものである。


 いわゆる孟宗竹の名の由来になった説話です。
 それにしても、積雪する真冬にタケノコを堀りに行く孟宗も、つわものですね。

 祇園祭の孟宗山です。

  孟宗山

 よく見ると、孟宗のかぶった笠や、うしろの松に雪が積もっているでしょう。
 なにげなく見ていると気づきませんが、案外リアルに作られています。

  孟宗山
   二十四孝のひとり、孟宗

 「二十四孝」からは、孟宗のほかに、郭巨(かっきょ)も山の題材になっています(郭巨山)。以下、大意です。

 貧しい郭巨は、妻と3歳の子、それに老母と暮らしていた。老母は、孫をいつくしんで自分の食事を孫に与えている。
 郭巨は、それを心苦しく思い、「子供は再び授かることは出来るけれど、母は二度と得ることはできない。子供を土に埋めて、母を養おう」--そう考え、子を連れて、涙ながらに土を掘ると、地中から黄金の釜が出現。子も埋めずに済み、母への孝行を尽くしたという。


 郭巨の話は、このような感じです。
 あまりに孝行を大事にしすぎなのですが、そういう道徳観もあったのでしょうか。

 まだまだあるようですが、今回はこのへんで。
 祇園祭の山鉾にまつわる故事、伝説は、どれもたいへん興味深いものです。巡行を見ながら、思いを馳せるのも愉しそうですね。


  芦刈山




 芦刈山

 所在 京都市下京区綾小路通西洞院西入ル芦刈山町
 見学 自由
 交通 地下鉄「四条」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 林屋辰三郎『町衆』中公新書、1964年
 『日本古典文学全集24 今昔物語集4』小学館、1976年
 『御伽草子』岩波文庫、1986年

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