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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS朝日「京都ぶらり歴史探訪」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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四条河原町の喧騒の中に「烏須沙摩辻子」はあった





うすさま辻子


 裏寺町を行く

 京都の繁華街で、最もにぎやかなところといえば、河原町通でしょうか、四条通でしょうか。それとも、新京極かも知れません。
 南北に通る河原町通と新京極の間に、その名も「裏寺町」という通りがあります。

 裏寺町
  裏寺町

 写真は、蛸薬師通から南をのぞいたところ。
 北は六角通あたり(シネコン「MOVIX京都」裏の辺)から、南は四条通あたりまで、400m余り、南北に延びる狭い通りです。
 通りの両側には寺院が多く、50年ほど前の書物には、17か寺あると記されています(『新撰京都名所図会』)。若干移転された寺院もありますが、今でも大半はそのままです。


 裏寺町の南端は?

 この裏寺町を南へ歩いていくと、四条通に抜けられます。
 南端の道路は、下の写真のようになっています。

 裏寺町

 左がファッションビル「河原町オーパ」、右には飲み屋さんが数軒あります。
 突き当りがコンビニになっていて、そこを左折してカギの手に曲がります。

  うすさま辻子

 曲がると、一段と細い路地になっていて、向こうが四条通です。
 
 今日の主人公は、この路地です。
 
 いちおう名前が付いていて「烏須沙摩辻子」などと呼んでいました。読みは「うすさま・ずし」です。
 独自の名があることから分かるように、この路地は裏寺町通とは別の道なのでした。


 「烏須沙摩辻子」を探る!

 100mにも満たない烏須沙摩辻子。
 その名が奇妙ですね。「辻子」は、とりあえず路地くらいに思っておいていただいて、「烏須沙摩」について調べてみましょう。

 辞書を見ると、「うすさま」は「うすさま明王」に同じとあります。

 烏芻沙摩明王
 金剛界曼荼羅の一尊。不浄を転じて清浄とする明王。
 形相には異同があるが、目は赤く、身は黒く、四臂(ひ)で、火炎に包まれ忿怒(ふんぬ)の相を示す。
 主として安産または出産の不浄を払う効験を持つとされ、密教、禅宗などでは便所の守護神とする。(後略) (『例文仏教語大辞典』70ページ) 


 「四臂」というのは、手が4本あるということ。「臂」は腕のことですけれど、“八面六臂の活躍”などというのは、顔が8つ、手が6本あるほど目覚ましい働きをする、ということですね。
 腕は6本という話もあって、剣を持ったり羂索を持ったり、いろんな持物を持ちます。龍が絡みつく場合もあるようですね。いずれにせよ、火炎を背負って怒りの形相なのですから、恐そうな明王です。
 なお、「うすさま」の当て字はさまざまあり、異名もあるということです。

 ということで、おそらくこの道のあたりに、烏須沙摩明王が祀られていたのだろうという推測は付きます。
 そこで古い地図を見てみましょう。竹村俊則氏が作成されたものです。

 新京極図(『新撰京都名所図会』より)
  50年余り前の裏寺町周辺(『新撰京都名所図会』巻4 より)

 矢印が、烏須沙摩辻子。
 見ての通り、辻子がぶつかるところに、大龍寺というお寺があります。ここに烏須沙摩明王が祀られていたのです。

 (※『新撰京都名所図会』は左右の道を烏須沙摩辻子と記していますが、ここでは縦の道と考えています)


 大龍寺に行ってみた!

 大龍寺について、「京都坊目誌」は次のように記しています。

 大龍寺
 裏寺町。東側(中略)にあり。寺門南面す。【四条通に向ふ】
 裏寺町南より四条通に至る間を【地は中之町に属す】俗に烏須沙摩ノ辻子と字[あざな]す。本寺内に烏須沙摩明王ノ像を安する故也。
 浄土宗、鎮西派。金戒光明寺に属す。本尊阿弥陀仏ノ像を安す。天正十四年、僧清善開基す。(中略)天明八年正月、大火に類焼し、今の建物は其後の再建也。(後略)


 裏寺町の南端から四条通に至る部分を「烏須沙摩ノ辻子」と名付けている、と書いています。
 江戸時代の文献によると、この辻子は「大龍寺辻子」と呼ばれることもあったようです。

 では、いよいよ大龍寺に行ってみましょう!

 ところが、京都の方はご存知かも知れませんが、このあたりは近年激変しています。

  うすさま辻子
  四条通から入った烏須沙摩辻子
  左がゑり善、右がみずほ銀行

 問題の場所は、四条河原町の交差点の北西方向です。
 角には、みずほ銀行などがあり、銀行の西にこの烏須沙摩辻子があります。ところが、上の写真でも分かるように、辻子の正面はオーパになっています。

 裏寺町
  右のビルのところに大龍寺があった

 実は、現在のオーパのあった場所(裏寺町側)に、大龍寺はあったのでした。
 ところが、昭和52年(1977)に、郊外へ移転したのです。調べてみると、右京区に移られていたので、さっそく訪ねてみることにしました。

 鳴滝

 一転して、のどかな風景。
 御室から福王寺の交差点を経て、周山街道に入ります。高尾病院を越したところに、看板が立っています。

  大龍寺 「ウッサンの寺 大龍寺」

 これか。
 しかし、「ウッサン」とは?
 やっぱり、ウスサマのことなんだろうなぁ……

 坂を少し上ると、すぐに大龍寺です。

 大龍寺
  現在の大龍寺

 大龍寺
 
 総門の右脇に、「日本三躯随一 烏枢沙摩明王奉安所」とあります。お詣りに来られる方も多いのでしょう。
 石段を上ると、本堂の手前にお堂がありました。

 大龍寺
  烏枢沙摩堂

 宝形造に向拝を付けた小さなお堂です。四条河原町から移築されたとのことですが、建物や敷地内を見ていくと、かつての信仰のあとがうかがわれます。

 大龍寺

 まずは、掲げられた額の類です。

 大龍寺

 「烏枢沙摩明王」の額。

 大龍寺

 信仰のさまを示す奉納絵馬。
 いつ誰が納めたのか、表面には書かれていないので分かりませんが、明治くらいのものでしょうか。
 この種の絵馬は非常に多く、奉納する人、もしくは親族などの参拝姿が画面に描かれています。人物は、左向きです。
 この絵馬は、お堂の屋根、組物、高欄などの細部も比較的忠実に描かれています。また、人物の左右にある石灯籠は、あとで紹介するものだと思います。大龍寺烏枢沙摩堂が、裏寺町にあった時代の姿を伝えています。

 大龍寺

 大龍寺

 こちらは、明治19年(1886)1月に奉納された額なのですが、画面はすっかり消えていて、全く見えません。よくよく見ると、人名がたくさん書かれているような気もします。
 奉納者は、花廼家昇月、鶴女。夫婦なのか、芸人さんか役者さんといったところでしょう。


 市川海老蔵・団十郎の奉納額

 おもしろいのは、この竪額です。

  大龍寺

 お堂の正面左に掲げられており、「大願成就」と大書されています。
 掲げられた年は、表には記載がないので不詳。下部に人名が列記されています。

 大龍寺

 次のように書かれています。

  七代目
    海老蔵
  倅[せがれ]
  八代目 団十郎
      重兵衛
      高麗蔵
      猿 蔵
      幸 蔵
      赤 平
   河原嵜
      権之助 


 海老蔵、団十郎という名前から分かるように、歌舞伎の成田屋・市川団十郎家の人々です。
 どのような関係かというと、最初に一段高く記されている「海老蔵」が、五代目市川海老蔵です。「七代目」とあるのは、七代目団十郎だったからで(当時の史料にも、この表記があります)、「歌舞伎十八番」を制定したことで知られる人。この段階では、団十郎の名はすでに息子に譲っていました。
 その息子が、長男、八代目市川団十郎。この人は、大人気のスターでしたが、安政元年(1854)、大坂で謎の自殺を遂げてファンを悲しませました。
 次男が、「重兵衛」とある、六代目高麗蔵。この時は、すでに役者を廃業して、兄の手代として一座に付いていました。
 三男が、七代目高麗蔵。のち、七代目海老蔵を襲名します。
 四男は、初代猿蔵。
 そして、弟の幸蔵。
 末の子が「赤平」、これは「あかんべえ」といって、八代目海老蔵の最初の名前です。まだ、小さな子供なのです。

 と、ずらっと五代目海老蔵と、その子供たちが並びます。
 実は、彼の息子は7人いました。1人足りませんね。五男は、のちに明治の名優となる九代目団十郎でした。ただ、この人は、当時、河原崎家に養子に入っており、その名も、長十郎 → 権十郎 → 権之助 と変わっていきます。
 すると、末尾の名前、「河原嵜権之助」は彼のことかと思いますが、どうもそうではないようです。

 この額がいつ奉納されたかが問題です。
 長男の八代目団十郎は、安政元年(1854)に没しています。
 また、末っ子のあかん平(八代目海老蔵)が生まれたのが、弘化2年(1845)です。
 このことから、奉納時期は、1845年の少し後から1854年までの10年弱と考えられます。

 その時期には、明治の名優・五代目団十郎は、まだ権之助を襲名しておらず、前名の権十郎でした。
 すると、ここにある河原崎権之助は、彼の養父の先代権之助ということになります。海老蔵の息子の後見人なので、最後に名を連ねたのでしょう。

 では、市川家はなぜこの額を奉納したのでしょうか?
 「大願成就」の言葉に、何か決意めいたものが感じられます。

 推測としては、五代海老蔵は、嘉永5年(1852)に江戸において一世一代の興行を行っています。これは、天保の改革のとばっちりで江戸追放となっていた海老蔵が、復帰後に行った興行でした。当時の刷り物には、やはり息子たちの名が連記されています。
 海老蔵は、長い江戸追放の間、京・大坂でも頻繁に出演していました。京都の芝居とも縁が深くなっていました。
 その関係で、嘉永5年に、御礼としてこの額が奉納されたのではないかと、これはひとつの想像です。
 

 中村鴈治郎・扇雀の奉納も

 他にも、こんな額が!

 大龍寺

 歌舞伎俳優の中村鴈治郎家の奉納額です。昭和50年代から60年代のもので、毎年の干支の絵柄になっています。
 最初は、二代目鴈治郎さん(故人)と、息子の扇雀さん(現・坂田藤十郎)、その長男の智太郎さん(現・翫雀)の3人。すぐに次男の浩太郎さん(現・扇雀)が加わり、さらに鴈治郎さんが亡くなり、と変転していきます。

 この烏枢沙摩明王、四条、新京極など劇場の多い場所にあったせいでしょうか、役者さんからの信仰を集めていたことがうかがえ、たいへん興味深いと思います。


 石造物も、おもしろい!

 敷地内にある石造物も見てみましょう。
 まずは手水鉢。

 大龍寺

 大龍寺

 表に「奉納」、裏に「願主/いけ吉」とあります。いけ吉は、よく分かりません。
 奉納年は、見えづらいのですが左側面に「文政六□/癸未年/六月」とあるように読めるので、文政6年(1823)のものということになります。

 次に一対の石灯籠です。

 大龍寺

 形状は、先ほどの絵馬の絵によく似ています。
 胴の部分に、「うすさま明王」と書いてあります。

  大龍寺

 裏面には、願主など。

  大龍寺

 「文化六己巳歳/五月吉日再建/俵屋清兵衛/油屋吉左エ門」とあります。
 文化6年は、1809年。およそ200年前、信心する商人の寄進と思われます。

 このように篤い信仰を集めてきた大龍寺の烏枢沙摩明王。

 江戸時代には、花柳界、役者、芸人、あるいは商人などが信仰する、功徳のある流行神仏が数多くありました。
 以前ここでも、三条の「だん王」こと、壇王法林寺の主夜神や、禅居庵の摩利支天などを紹介しました。

 記事は、こちら! → <本居宣長の日記に登場! 壇王法林寺の主夜神は、江戸時代から信仰を集めている> <イノシシの摩利支天堂は、ずっと篤い信仰を集めている>

 これらは、どちらかというと繁華街にあるものが多く、この烏須沙摩明王もそのひとつだと考えてよいでしょう。辞書的な“トイレの神様”だけでは終わらない歴史的な変遷があるわけです。

 こういった関心は、もう少し深めていきたい気がしています。


 大龍寺




 大龍寺 烏枢沙摩堂

 所在 京都市右京区梅ケ畑高鼻町
 拝観 境内自由
 交通 市バス「高尾病院前」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 竹村俊則『新撰京都名所図会 4』白川書院、1962年
 碓井小三郎『京都坊目誌』1916年(『新修京都叢書 16』光彩社、1968年所収)
 『日本歴史地名大系27 京都市の地名』平凡社、1979年
 足利健亮『中近世都市の歴史地理』地人書房、1984年
 『望月仏教大辞典』世界聖典刊行協会、1933年
 石田瑞麿『例文仏教語大辞典』小学館、1997年
 伊原敏郎『歌舞伎年表 6』岩波書店、1962年
 野島寿三郎編『歌舞伎人名事典』日外アソシエーツ、1988年

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