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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS朝日「京都ぶらり歴史探訪」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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【新聞から】本能寺の変の原因に迫る? 書状発見

その他




 明智光秀辞世(西教寺)

 本能寺の変は四国攻め回避?
 新史料 長宗我部元親の書状
 各紙 2014年6月24日付



 このブログでも、折にふれて登場する明智光秀。そして、光秀といえば本能寺の変。
 6月24日付の各紙朝刊は、それに関する新発見史料で沸き立ちました。朝毎読産4紙のうち、産経は1面と社会面で大々的に取り上げました。

 朝日新聞のリード文を引用しておきましょう。

 明智光秀が主君・織田信長を討った本能寺の変(1582年)の直前、光秀と近しかった土佐の長宗我部元親が、光秀の重臣斎藤利三に送った手紙が見つかった。(中略)信長が一方的に変更した四国政策を当初拒んでいた元親が翻意し、受け入れるとした内容で、四国政策をめぐる信長と光秀の確執の解明に役立つ史料だ。

 プレスリリースによると、今回話題となった林原美術館(岡山市)所蔵の石谷(いしがい)家文書は、全3巻、つまり3つの巻物に、47点の文書が集成されているということです。その第2巻に、報道に出てくる長宗我部元親の書状などが収められていたそうです。3つの巻物は1箱に入っていたもので、石谷家あての重要な書状などを後年まとめて巻物とし、1箱に収めて伝えたのでしょう。

 そのうち特に注目された書状が、本能寺の変にかかわるもので、変が起こった天正10年(1582)1月11日付の、明智光秀の部下・斎藤利三から兄の義父・石谷光政(空然)に出した書状(1)と、変の10日ほど前の同年5月21日付の、土佐の戦国大名・長宗我部元親から斎藤利三に出された書状(2)です。

 当時の状況ですが、その頃、土佐の長宗我部元親は、阿波や讃岐にも侵攻して四国統一を進めつつあり、そのことは当初、織田信長も認めていました。ところが、天正9年(1581)後半頃になって、信長は方針を変え、元親に対して、土佐と阿波の南半分しか領有を認めないと伝えました。
 当然、元親は納得いきません。
 明智光秀は、かねてから織田と長宗我部の仲介役を務めていました。光秀の家臣・斎藤利三は、兄の石谷頼辰を使者として長宗我部家に派遣し、元親が軽はずみな行動をしないように諌めます。
 斎藤家、石谷家、長宗我部家は、婚姻関係でつながっていた縁戚でした。

 上の(1)の書状は、利三が土佐にいた石谷光政に対して、自分の兄であり光政の養子でもある石谷頼辰を派遣することや、元親の軽率な行動を抑えるように依頼した内容です。
 明智光秀サイドは、斎藤利光がもつ縁戚関係をうまく活用して、織田と長宗我部が対立しないように、仲立ちしているのです。
 
 そして、本能寺の変(6月2日)の前月、5月上旬になると、信長は長宗我部氏を征討する軍を編成し、三男・信孝を総大将として差し向けることを決定します。
 いよいよ四国に攻め込まれる事態が迫り、5月21日の(2)の書状で元親は、1月とは打って変わって、信長の意向に従うことにします。阿波の多くの城から撤退し、信長が甲斐・武田氏の討伐から戻ったら、その指示を仰ぐとしています。ただし、阿波南部の2つの城は土佐の入り口にあたるため、そのまま保持したいとの希望を述べています。
 変が決行される僅か10日ほど前の書状です。

 この書状は、長宗我部元親から斎藤利三に出されたものです。
 受け取った利三は、織田と長宗我部の間に立って、最後の調整を続けたのでしょうか? しかし、阿波を取り上げる方向だった信長に対して、もはや調整不可能だったのかも知れません。
 藤田達生・三重大教授は、「利三は[本能寺の変で]信長を討った実行部隊。ぎりぎりまで交渉したが、時間切れでうまくいかなかったことが(変の)引き金になったと言わざるを得ない」と述べています(朝日新聞)。

 もちろん、この書状の発見で、本能寺の変が起こされた動機解明に即つながるわけではありません。
 変の要因としては、<野望説><怨恨説><黒幕説>等さまざまあり(産経新聞)、「信長が四国の統治方針を変え、[仲介役としての]面目をつぶされた光秀が謀反を起こしたとする『四国説』」(読売新聞)も、そのうちのひとつです。
 今回の書状は、長宗我部元親が信長に恭順の意を示すことが分かる新史料で価値が高く、<四国説>を補強します。
 岡山県立博物館の内池英樹学芸員は、「この発見で50点程度だった四国説が80点までになり、他説に比べ一歩抜きんでた」とコメントしています(産経新聞)。

 それにしても、各紙を読み比べていて、私たちが一番 “!” と思ったのが、産経新聞の次の言葉。

 光秀はなぜ、信長を襲ったのか。「本能寺の変」の動機は、邪馬台国の所在地論争と並んで日本史最大のなぞとされている。
 
 そうだったのか、邪馬台国と並ぶ「最大のなぞ」だったとは……。
 1面で大々的に取り上げられたのも理解できます。

 そして、よくみると、朝日新聞も「日本史上最大の謎のひとつ」と書いています。

 そういえば、最近、本能寺の変の本がよく売れているとか。
 これを契機に研究が進むと、泉下の光秀公も、さぞかし喜ばれることでしょう。

 林原美術館
 史料を所蔵する林原美術館(岡山市)


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