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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

明智光秀の首塚は、幕末から明治、歌舞伎役者たちによって整備された - 光秀饅頭も美味!-

洛東




明智光秀首塚


 「都名所図会」にも登場する光秀首塚

 京都の史跡を歩いていると、明智光秀という名に出くわすことが意外に多いのです。
 このブログでも、明智風呂や明智門について書いてきましたが、今回はいよいよ「首塚」です!

 過去の記事は、こちら! ⇒ <妙心寺の浴室は「明智風呂」>  <光秀ゆかりの「明智門」は、ほかの門とともに移動した>

 東山三条から三条通を東に行くと、白川が流れています。

 白川
  白川

 この東岸を2筋ほど下がると、すぐに目的地なのですが、その前に光秀の首塚について、竹村俊則氏の説明でおさらいしておきましょう。

  明智光秀首塚は白川橋より南へ100メートル、白川の東畔梅宮町の路地の奥にあって、「長存寺殿明窓玄智大禅定門」としるした1メートル余の石碑があり、傍に洛西梅宮大社の分霊を祀った梅宮社という小祠がある。
 光秀は天正10年(1582)6月、山崎の合戦で敗れ、江州坂本城を目指して遁れる途中、伏見区小栗栖で土民の襲撃をうけ、あえない最期を遂げた。首は粟田の刑場にさらしたのち、付近の西小物座町の人家のうしろに埋められた。
 その後、光秀の子孫にあたるという明田某が梅宮町の自宅に移し、光秀の菩提を弔ったという。
 社前にある小さな五重層塔は、もとの地にあった首塚から移したものであろう。因みに首より上の病気に悩むものは、この塚に祈れば霊験があるといわれ、今なお賽客が絶えない。(『昭和京都名所図会 洛東・下』20ページ)


 光秀の最期については諸説ありますが、江戸時代から粟田に首塚が祀られていたといいます(これも諸説あり)。
 「都名所図会」(1780年)を見ると、光秀の首塚が描かれています。

 「都名所図会」より明智光秀首塚
  「都名所図会」巻3

 左右に走る道が三条通。その北側にあるということで、現在地と異なることが明瞭です。

 「都名所図会」より明智光秀首塚

 少し樹木が茂っており、「明智光秀 首つか」と記されています。


 首塚の移動
 
 この首塚の移動について、碓井小三郎の『京都坊目誌』が詳しく取り上げていますので、振り返っておきましょう。
 まず、碓井が実際に見たと思われる光秀の首塚は、

 梅宮町北端、四百七十二番地人家の後方にあり。
 維新前は、是より東上壇の地にあり。其後、此地に移すと云ふ。
 今傍ニ稲荷の小祠あり。其下に墓標ノ石塔高三尺許[ばかり]のもの一基あり。光秀の首級を埋むと云ふ。 (下京第八学区之部。句読点は改めた)


 という状況でした。

 整理すると、

(1)[明治後期~大正初期の現在は]梅宮町の北端にある
(2)明治維新前は、東の上壇の土地にあったが、のちにここへ移した
(3)墓標である高さ3尺(90㎝)ほどの石塔があり、光秀の首を埋めているという

 となります。
 「東上壇の地」とは、「都名所図会」に描かれている場所なのでしょうか。それとも、現在地の少し東という意味なのでしょうか。
 『京都坊目誌』が引いている青蓮院の記録「華頂要略」巻57によると、<光秀の首塚は西小物座町の人家の後ろにある>と記しています。西小物座町は、蹴上のウエスティン都ホテルの向かい側あたりになります。
 このことは、古く宝暦12年(1762)の「京町鑑」にも、「此町北側人家の裏に明智光秀の古墳有」とあることからもうかがえます。「都名所図会」より前の史料ですから、おそらく「都名所図会」の首塚も西小物座町のものを描いているのでしょう。
 少なくとも、江戸中・後期には、西小物座町の塚が明智光秀の首塚と認識されていたことがうかがえます。

 また、<近年、その首塚を能の笛吹き・明田理右衛門という人が、自分は光秀の子孫だと云って、その首塚にあった石塔婆を私宅に移した>と述べます。さらに、<明田某は死んで、今なお梅宮町の梅宮の旧地の西にあって渡邊山城という者が守っている>とも記しています。


 随筆「翁草」の記事

 さらに参考のため、安永5年(1776)序の随筆「翁草」(神沢貞幹)が掲載する話を引いておきましょう。
 これが、少しミステリアスな話なのです(現代文に直した要旨です)。

 明智光秀の墳墓は、洛東・粟田口黒谷街道より東の方、路傍北側の人家の裏にある。前の家は町会所である。庭に古木が茂っていて、その下に古い五輪塔がある。これが光秀の墳墓である。老樹が茂って薄暗いが、木を伐ろうとすると祟りがあると伝えられていて、さわる者もいない。
 
 ところで、白川橋通の三条下るあたりに、笛を吹く能役者・明田理右衛門という人がいた。
 明和8年(1771)春頃、見慣れない男が理右衛門のところに来た。聞くと、自分は粟田口あたりの者だが、あなたの先祖の由緒を教えてほしい、と言う。
 急なことで理右衛門は当惑したが、亡き父に聞いたところによると、老母が語るには、先祖は丹波の者で名前も由緒も分からない、今となっては知る由もない、と答えた。

 理右衛門は不審に思ったが、数日後、再び男が訪ねてきて、結局、先方の町を訪ねることになった。
 訪ねてみると、町年寄たちが出てきて、あなたは明智殿の子孫か、宗徒か、所従の人の末裔かになる。この家の裏に光秀の墳墓があるので、屋敷とともにあなたに譲りたいのだ、と話した。自分たちの頼みなので、経費もほとんどかからないという。
 理右衛門は驚いて、由緒はともあれ、屋敷を譲られる件は辞退したいと申し出た。しかし、年寄たちはどうしても譲りたいと言い張る。なぜ譲りたいのかと理由を聞いても一向に答えないので、とりあえず家に帰って相談することにした。

 結局、理右衛門は屋敷を譲り受けることにした。ただ、自分の居宅としては勝手が悪いので別宅とし、庭の古木も皆な伐り払ってしまったが何の祟りもなかった。

 思うに、町の方で、何らかの奇怪な出来事があったか、夢の告げでもあったのだろう。(「翁草」巻37「明智光秀斎藤利三墓の事」)


 こんな話です。
 明田理右衛門自身も、自分の由緒を知らなかったわけですが、首塚の近くの住民から、光秀の子孫だと言われ、屋敷ともども押し付けられる羽目になったわけです。なんとも不思議な話ですね。
 「翁草」のこの記事と、先の「華頂要略」の記述(こちらが後から書かれています)を比べると、食い違いがあるように思えますが、いずれが正しいのか、今は分かりかねます。


 光秀の首塚を訪ねてみる

 首塚の変遷については、改めて考察するとして、いよいよ現在の場所を訪ねてみましょう。
 
 和菓子店・餅寅
  和菓子店・餅寅

 三条通から白川に沿って下ると、東岸に「餅寅」という和菓子屋さんがあります。
 この脇の路地を折れると、すぐに首塚です。

  明智光秀首塚

 角に、「東梅宮 明智光秀墳」という石標があって、右側面には「あけちミツひて」と仮名書きされています。弘化2年(1845)に京都の人たちが建てたものですが、その名前は少し読みづらいですね。

 進むと、路地の先に突然現れます。

 明智光秀首塚

 現在では、玉垣の中に小祠があって、石塔もあります。

  明智光秀首塚
 
 これが先ほどからしばしば登場している石塔です。崩れないようにコンクリートで固めてあります。
 境内には、餅寅さん所蔵という古い写真も掲げられています。

 明智光秀首塚

 全体の様子や石造物の位置関係は、現在と全く異なります。いつの写真かもよく分かりませんが、後でふれるように明治後期以降であることは確かです。雰囲気では、昭和の初めくらいかなと思いますが……


 人形浄瑠璃の太夫らが寄進した手水鉢

 今回、詳しく見たのが、この石造物です。

 明智光秀首塚

 左が手水鉢、右は明智光秀の戒名が記された“墓石”ともいうべきもの。
 
 まず、手水鉢から。
 右の側面をよく見ると、人名が彫られています。

 明智光秀首塚

 なかなか読みづらいのですが、右端には「竹本大隅太夫」とあり、その隣にも「竹本大[   ]」のように読めます。
 また、左端は「野沢庄次郎」です。
 お分かりのように、人形浄瑠璃にかかわる名前ですね。

 さらに、手水鉢の左側面、これは玉垣や草で極めて読みにくいのですが、「世話人 餅虎」という名があり、表の和菓子屋さんが当時かかわっておられたことが判明します。
 奉納された年は、「文久二年[壬]戌九月」と読めますので、1862年になります。
 左端には石工の名前も刻まれているようです。

 文久2年、竹本大隅太夫、野沢庄次郎。このキーワードで調べてみました。
 すると、彼らが明智光秀と関係のあることが分かってきました。

 『義太夫年表 近世篇』によると、安政7年(1860年)正月、京都の四条南側大芝居で「大操り狂言」、つまり人形浄瑠璃が上演されました。
 メインとなる櫓下の太夫は、竹本大隅太夫。他に竹本大島太夫らの出演があり、三味線には鶴沢燕三や野沢庄次郎らが名を連ねています。人物は、ぴったり。
 そして、出し物は「絵合太功記(えあわせたいこうき)」。
 太閤記もののひとつで、もちろん明智光秀も登場します。光秀は、昔の作中では「武智光秀」ですね。

 大隅太夫は、幕末に活躍した初世のようです。
 手水鉢が奉納された文久2年9月は、興行された安政7年正月の2年半後です。興行成功の御礼と、光秀の供養に奉納したのでしょうか。


 歌舞伎役者・市川団蔵が境内を整備した

 もうひとつの石造物。

  明智光秀首塚

 「長存寺殿明窓玄智大禅定門」という光秀の戒名です。
 問題は、裏面。

  明智光秀首塚  明智光秀首塚

 「明治三十六年四月 市川団蔵建之」と刻まれています。
 明治36年は、1903年。市川団蔵は七世です。東京の人ですが、上方にもよく来訪し、明治44年(1911)に亡くなっていますから、晩年です。

 こちらも、『近代歌舞伎年表 京都篇』で、明治36年の興行を調べてみました。
 すると、やはり4月2日から24日まで、京都の歌舞伎座(四条新京極上る、かつての道場の芝居)で、「時三升桔梗籏揚(ときにみますききょうのはたあげ)」が上演されていました。
 この「桔梗籏揚」は、「時今也桔梗旗揚(ときはいまききょうのはたあげ)」で、いわゆる“馬盥(ばだらい)の光秀”として著名な太閤記ものです。
 公演の座頭が市川団蔵で、もちろん光秀を演じています。
 この光秀、七世団蔵の当り役のひとつで、九世団十郎の光秀と対照的な演技で人気を博していました。

 こんなわけで、京都・歌舞伎座での上演に合わせて、首塚の石碑を建てたのでした。
 この時の団蔵の口上も残されていますので、紹介しておきましょう。

 御市中御看客様、益々御機嫌克被遊、珍重の義奉存候。随而、私儀今般当座へ出勤致升る様相成、狂言之義は去る御贔屓様より明智光秀当年三百余年に相当り役義の為供養営み度、幸ひ三条白川梅の宮に有之候光秀の墳を聊手入いたし、私御当所一世一代として慎しんで演じ候に付、何卒老優の御目まだるき段御許容被下永当々々御来観之程伏、奉希上候。 市川団蔵敬白 (『近代歌舞伎年表 京都篇』4、178ページ)

 首塚に関係する部分をまとめると、<私は今回この歌舞伎座で公演いたしますが、演目のことは、あるご贔屓(ひいき)から、明智光秀の三百余年になると聞き、その供養を営みたく思い、幸い三条白川の梅宮にある光秀の墳墓をいささか手入れしました>というようなことになります。
 「去る御贔屓様」が誰なのか分かりませんが、すすめられるままに墓域の整備をしたわけです。口上で述べるくらいですので、それなりに気持ちを込めて整備したのでしょう。

 この時、団蔵、67歳。自ら「老優」と言っています。実は同年同月、高野山にあった七世市川団十郎の墓の修繕も市川右団次とともに行っています。同時に2つの墓域の整備をするとは、なんと善い人だったかと人柄が偲ばれます。


 帰りには「光秀饅頭」

 よく、「東海道四谷怪談」を上演する際に、役者さんがお岩さんをお参りするという話を聞きます。
 また、今でも六波羅蜜寺に行くと、坂東玉三郎さんが阿古屋の塚を整備されている様子を目にすることができます(お参りにも来ておられます)。大隅太夫や団蔵も、それと同じです。

 帰りがけ、角の餅寅さんで、「光秀饅頭」を求めました。
 お店は、天保年間から続いているそうで、先ほどの手水鉢や玉垣の整備に尽力されてきたようです。

 光秀饅頭 和菓子店「餅寅」

 光秀饅頭
  光秀饅頭 (1個140円)

 焼印は、桔梗の紋。
 みそあん(左)と、つぶあん。どちらも素朴な味で、おいしくいただきました。




 明智光秀首塚

 所在 京都市東山区梅宮町
 拝観 自由
 交通 地下鉄東西線「東山」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 「都名所図会」1780年
 「翁草」1776年(『日本随筆大成 第三期』11 所収)
 『義太夫年表 近世篇』3・下、八木書店、1982年
 『近代歌舞伎年表 京都篇』4、八木書店、1998年
 『京都坊目誌』1915年(『新修京都叢書』20 所収)
 『日本歴史地名大系27 京都市の地名』平凡社、1979年
 竹村俊則『昭和京都名所図会 洛東・下』駸々堂出版、1981年
 八世市川団蔵『七世市川団蔵』求龍堂、1961年
 『歌舞伎人名事典』日外アソシエーツ、1988年
 『大人名事典』平凡社、1954年


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