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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS朝日「京都ぶらり歴史探訪」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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西本願寺前の「御前通」と同じく、東本願寺前にも建物の名前をつけた通りがあった





東本願寺


 洛中絵図に通りの名が…

 先日、「正面通」(しょうめんどおり)を歩く記事をアップしました。
 その際、西本願寺前の正面通は「御前通」の別名があることを紹介しましたね。

 記事は、こちら! ⇒ <珍しい名前の通り、「正面通」を歩いてみた>

 そのあと、たまたま足利健亮氏の『中近世都市の歴史地理』を見ていたところ、東西本願寺付近の地図が掲載されていました。
 その元の地図は、京都大学附属図書館が所蔵している「寛永後 万治前 洛中絵図」で、町名や通り名が細かく記入されています。寛永19年(1642)前後の地図と考えられています。

 その東本願寺の周辺部に、実に気になる記載があったので、すぐに臨川書店から出ている復刻版を見てみました。
 
 「洛中絵図」には、「東御門跡」として東本願寺が記載され、北に「本堂」(御影堂)、南に「阿弥陀堂」が画かれています。
 注目されるのは、東本願寺にぶつかる東西の道の名前です。
 北から、次のようになっています。

 「太鼓番屋筋」
 「御影堂筋」
 「阿ミタ堂筋」

 そして、その南に「七条通」が通っています。

  中珠数屋町通
   現在の中珠数屋町通
 
 これらの街路は、現在の通りと次のように対応します。

  太鼓番屋筋 = 上珠数屋町通
  御影堂筋  = 中珠数屋町通
  阿弥陀堂筋 = 下珠数屋町筋

 すでにお分かりのように、御影堂の前の通りが「御影堂筋」であり、阿弥陀堂の前が「阿弥陀堂筋」、そして太鼓番屋の前が「太鼓番屋筋」となっているわけです。実に明快なネーミングですね。
 いずれも、3間半、つまり6m強ほどの道幅でした。

 東本願寺周辺図
  東本願寺の周辺(左が北)

 路傍の案内図ですが、東本願寺から上(東)に向かって3つの「数珠屋町通」が伸びているのが分かりますね。


 太鼓番屋って何だ?

 ところで、疑問は「太鼓番屋筋」の太鼓番屋って何? ということです。
 
 寺社に詳しい方なら、本願寺で太鼓番屋と聞くと、この建物を思い出すのではないでしょうか。

 西本願寺鼓楼
  西本願寺 鼓楼

 西本願寺の鼓楼(太鼓楼)です。先日、重要文化財に指定されることが報じられたところですね。
 幕末には新撰組の屯所になっていたことでも知られますが、内部に太鼓が置かれ時刻を告げていました。
 けれども、これは“西”本願寺なので、東本願寺の太鼓番屋とは無関係です。

 困ったと思って、「都名所図会」(1780年)を見てみました。
 すると、

 「都名所図会」より東本願寺
  「都名所図会」巻2より「東本願寺」

 ありました、太鼓番屋。
 ページの隅っこにあって、開いてみると実に見づらいので今まで気付きませんでした。

  「都名所図会」より東本願寺

 入母屋造の建物の上に、櫓を乗せたようなスタイル。西本願寺に現存するものと、そっくりです。

 少し注意しておきたいのは、太鼓番屋の前を東西に走っている道路です。現在、この場所は東本願寺の境内になっています。
 東本願寺の境内は、明治末頃まで、北東隅の部分が大きく欠けた形になっていました。蛤御門の変(1864年)の類焼後、その欠けた部分は火防地になっていましたが、のち境内に取り込まれたのです。そのあたりに、かつて太鼓番屋もあったのです。
 現在の地図で考えると、東本願寺の北東の外は代々木ゼミナールのところ(花屋町通)と思ってしまいがちですが、そうではなかったのです。

 ちなみに、この太鼓番屋は現存しないわけですが、いつ焼けたのか、不勉強のため分かりません。
 「都名所図会」(1780年)のあと、天明の大火(1788年)から蛤御門の変(1864年)までのどこかで焼失したことになりますね。


 もうひとつあった「太鼓番屋筋」

 ところが、話はこれで終わりません。
 太鼓番屋筋という名前の通りが、もうひとつあったのです!

 先ほどの「寛永後 万治前 洛中絵図」(1642年頃)を見ると、西本願寺の南辺にぶつかる通りに「太鼓ノ番屋筋」と書かれているのです。ここは、現在の北小路通=下珠数屋町通にあたります。
 同じ頃の宮内庁蔵「洛中絵図」(1637年)にも「太鼓番屋筋」と記載されています。

 西本願寺で「太鼓番屋」らしい建物は、先に紹介した鼓楼(太鼓楼)ですが、これは境内の北東端にありますから、場所が正反対です。いったい、太鼓番屋はどこにあったのか?

 この太鼓番屋については、「表処置録」に、その役割が記されています。番所は昼夜厳重に番を務めること、時刻の通りに太鼓を打つこと、近くに火事があった場合は鐘を打つこと、などが定められています(『京都市の地名』)。

 改めて「都名所図会」を見直してみると、西本願寺の挿絵にありました。

 「都名所図会」より本願寺
  「都名所図会」巻2より「本願寺」 上方の楼閣は飛雲閣

 ここに櫓のような建造物が描かれていて、「物見」と記されています。
 平常の番をするとともに、火事の見張りもする太鼓番屋。これを「物見」、つまり見張り櫓と表現しているのでしょう。図中、橋の架かった通りが北小路通ですから、たぶんこの物見が太鼓番屋でよいと思います。

 それにしても、東本願寺の北東と、西本願寺の南東に、それぞれ太鼓番屋があり、太鼓番屋筋もあるという複雑な事態。これに加え、重文になる西本願寺・鼓楼(太鼓楼)もあったのですから、本当にややこしいです。
 今だったら、紛らわしくて許されないでしょうけれど、昔の人はおおらかですから、これでもOKだったんですね。

 


 太鼓番屋筋

 所在 京都市下京区上珠数屋町、北小路町ほか
 見学 自由
 交通 JR「京都」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 「都名所図会」1780年
 足利健亮『中近世都市の歴史地理』地人書房、1984年
 『洛中絵図 寛永後万治前』臨川書店、1979年
 『両堂再建』真宗大谷派宗務所出版部、1997年
 渡邊秀一「近世京都における東本願寺寺内のプランと変容」、「佛教大学文学部論集」94、2010年所収
 『日本歴史地名大系27 京都市の地名』平凡社、1979年


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