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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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新京極・旧ピカデリー劇場の場所には、かつて夷谷座があった





ダイエーグルメシティ(旧ピカデリー)


 「にわか」から喜劇へ

 ここ数日、必要があって「にわか」について調べていました。
 にわかは、俄、仁輪加、仁和加、仁○加などの文字をあてますが、かつて流行した芸能の一種です。
 『日本国語大辞典』では、「俄狂言」として、「座敷や街頭などで行われた即興的で滑稽な寸劇」と説明しています。江戸時代から、大坂や京都、江戸の吉原などで行われ、博多、佐賀、熊本など九州にも広がっていました。
 この芸能が、大阪では喜劇の源流になるとされています。

 そんな中、『近代歌舞伎年表』という非常に便利な本がありまして、京都篇、大阪篇などに分かれているのですが、毎年毎月行われた興行が詳細に記載されています。
 にわかの調べを始めたつもりが、いつのまにか脱線していき、今回は京都・新京極の古い劇場の話になります。


 新京極にできた劇場の数々

  新京極
   現在の新京極

 『近代歌舞伎年表 京都篇』別巻には、「京都市劇場史略図」として、新京極付近にあった劇場がまとめられています。
 それによると、明治時代の新京極には、通りに沿って北から、

 ・パノラマ館(明治24年~、のち弁天座→京都座)
 ・高小屋(明治6年~、のち阪井座→常盤座→明治座)
 ・夷谷座(明治9年~)
 ・大西座(のち瓢座→都座→初音座など)
 ・パテー館(明治44年~)
 ・東向の芝居・大谷座・大黒座(明治22年~、のち旭座→富栄座→京極座など)
 ・福井座(明治20年~、のち布袋座→朝日座→みかど館)
 ・笹の家・河村席(明治27年頃~、のち錦座)
 ・国華座・大虎座(明治34年~)
 ・河北席・大虎座(明治20年~、のち南電気館・オペラ館)
 ・四条道場芝居・道場演劇・坂井座(明治25年~、のち歌舞伎座)

 と、多くの劇場、寄席が並んでいます。
 小さなものが林立していますので、これとて正確、完全ではないでしょうが、だいたいの状況は分かると思います。


 日露戦争期の夷谷座に注目してみた

 にわかを調べていた私は、明治37年(1904)に注目していました。
 ちょうど110年前になるこの年は、日露戦争が勃発した年でした。日本がロシアに宣戦布告したのが、2月10日。
 奇しくもこの月、大阪で、にわかから新しい演芸、「喜劇」をスタートさせた二人の男が舞台を務めていました。曽我廼家五郎と十郎です。なかでも五郎は、後に日本の喜劇界を代表する大御所になります。

 二人は、大阪の浪花座で、明治37年2月13日から興行を始めますが、今まさに起こった戦争を逆手にとって、急遽「無筆の号外」という戦争にネタを取った芝居を掛けたのでした。通説ではこれがヒットし、二人の人気が始まったといわれています(一説には、余りヒットせず後の京都での上演が当たったといいます)。
 いずれにせよ、明治37年2月は、日露戦争が始まった月でもあり、日本の喜劇が本格的にスタートを切った月でもあったのです。

 そこに興味を持った私は、明治37年に京都の劇場でどのような芝居や演劇が掛けられていたのか、調べることにしました。正確にいうと、たまたま図書館で時間が余ったので『近代歌舞伎年表』を繰ってみた、というところでしょう。
 すると、いろいろ面白いことが現れてきました。

 明治37年の8月、新京極の夷谷座(新京極六角の誓願寺前にあった)では、宝楽一座の喜劇が上演されていました。
 8月13日から、「笑門富貴来涼風」「御祝儀宝の入船」「リンキ」「御所桜三段目」「産着の祝」「地獄の裁判」「岩井風呂」の上演です。
 この宝楽一座とは、大阪にわかの代表的な人物・大和家宝楽が率いる一座で、このときは初春亭芝鶴、雪の家たにしらとともに出演しました。
 人気だったらしく、8月18日からも、「桜の宮出来事」「三十三間堂柳[ママ]の由来」「道楽稽古屋」「新佐世姫汽車の賑」を上演。つづく8月23日から5日間も、「男達芝居気違」「先代萩」「元の鞘」「楽屋噺鎌倉山」を出しています。
 半月間の連続興行で、大阪にわかの人気の高さがうかがえます。
 演目も、人形浄瑠璃や歌舞伎に題材をとったものと、時事ネタを取り入れたものが上手に織り交ぜられています。

 新京極六角
  夷谷座があった新京極六角

 そんな夷谷座で、この年、正月から何が上演されていたのでしょうか。

 年始は、伊藤綾之助一座の新演劇のロングランから始まります。
 ところが、この興行は2月11日で終わり、つづく14日から、角藤定憲一座の新演劇「露兇漢」「喜劇 裏の裏」に変わります。この「露兇漢」、やはりロシアに関係する演目なのでしょうか?

 そして、3月1日からは、同じ角藤一座で、その名もズバリ「日露戦争」が上演されます。
 京都日出新聞の記事(3月4日)には、「夷谷座のお茶子には、角藤の考案で看護婦風の服装をさせる事にしたが、お茶子連中は着用する事を厭ふたので、大に角藤は立腹して命令的に着用せしめたとか」と見え、時局に便乗した企画だったことが分かります。

 さらに、3月23日からは、「日露戦争第二信」。
 このとき、夷谷座は自らの演劇規則として、興行ごとに一日分の収入を軍資に献納することとか、戦況を描き出すについては、現地に特派した座員・溝田小三郎の報道に依って写実的に演出することとか、戦争を強く意識した営業を展開していきます。

 4月になると、旅順の海戦などを映写する「日英米仏活動写真会」を行って「非常の大入」を記録し、また「日露戦争大パノラマ」で客を集めます。もはや、劇場の域を超えた営業です。

 このあとも、日露戦争ものと通常の演目とを混ぜ合わせながら興行をつづけます。
 そして、8月に上述の大和家宝楽一座が興行するのでした。

 誓願寺
   誓願寺  夷谷座はこの前にあった


 夷谷座の来歴
 
 『近代歌舞伎年表』に、夷谷座の興行が登場するのは、明治9年(1876)からです。ただ、劇場自身は明治5年(1872)に新京極が開かれたときからあったと『京極沿革史』には記されています。杉本五兵衛という人物の建設にかかるといいます。

 明治9年、新京極・誓願寺本堂前にあった夷谷座は、浄瑠璃身振り「由良湊千軒長者」などを上演しました。
 「浄瑠璃身振り」とは聞きなれませんが、身振り狂言とか身振り芝居と呼ばれるもので、浄瑠璃(義太夫節)にあわせて身振り手振りする、セリフのない芝居のことです。
 夷谷座は、開業当初はこの身振り狂言専門の劇場だったようで、出演者もほぼ女性、おそらく花街の綺麗どころだったのではないでしょうか。そのような傾向で人気を呼んでいたのでしょう。
 
  ダイエーグルメシティ(旧ピカデリー)
  旧京都ピカデリー劇場(グルメシティ京極店)

 この夷谷座の売店経営者の白井亀吉は、松竹の白井松次郎の義父でした。つまり、夷谷座は後に日本の興行界を席巻する松竹(白井松次郎、大谷竹次郎兄弟)のルーツのひとつであり、新京極はその本貫地であったわけです。そのため、夷谷座も昭和13年(1938)に松竹劇場に変わっていきます。

 その松竹劇場が、私たちにも馴染み深い京都ピカデリー劇場に変わったのは、戦後の昭和29年(1954)だそうです。
 私も学生時代に、ここで何度か映画を見たことがありますが、階上で営業していました。映画館は4階だったようで、見終わったあと、階段をぐるぐるまわりながら1階へ降りたのを記憶しています。2001年まで営業していたそうです。

 先日訪れると、現在営業しているダイエーグルメシティ京極店も、7月31日で閉店すると看板が出ていました。
 47年間のご愛顧……と書いてあったので、前身のサカエ時代の昭和42年(1967)からの長い営業だったわけです。

 グルメシティ京極店

 この建物も、やはり取り壊されるてしまうのでしょうか。
 壁面のピカデリーの横文字と松竹マークがなくなるのが寂しいですね。

 旧ピカデリー劇場のマーク




 夷谷座・京都ピカデリー劇場跡 (グルメシティ京極店)

 所在 京都市中京区六角通寺町東入桜の町
 見学 スーパーとして営業(2014年7月31日まで)
 交通 阪急電車「河原町」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 『近代歌舞伎年表 京都篇』各巻、八木書店、1995年
 『喜劇百年~曽我廼家劇から松竹新喜劇』松竹株式会社関西演劇部、2004年
 『京極沿革史』1932年、京報社(『新撰京都叢書』1 所収)


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新京極の写真について

ご愛読ありがとうございます。

新京極の写真について、このブログでもこれまで用いているものは、『新撰京都名勝誌』掲載のものです。
この書籍は、大正4年(1915)に京都市が刊行したものですので、当該時期に近い様子が写っていると思います。

京都府立図書館など、少し大きな図書館等にはあると思います。
刊行時期から、パブリックドメインになっていて自由に使用できますので、その点も手軽でしょう。

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