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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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東福寺・六波羅門のことを『修理工事報告書』で調べてみた - 前回の予想は半分あたり、半分はずれだった!? -

洛東




東福寺・六波羅門


 『修理工事報告書』を読んでみた

 前回、東福寺の六波羅門を取り上げました。
 重要文化財に指定されている小さな門です。

 前回の疑問は、
(1)どう見ても「四脚門」なのに、なぜ「棟門」で指定されているのか?
(2)四脚門に見える袖柱(控柱)は、いつ立てられたのか?

 といったものでした。

 その後、修理工事報告書を閲覧できたので、そこに記されていた“事実”を紹介します。

 東福寺・六波羅門
  東福寺 六波羅門(重文・鎌倉時代)

 『重要文化財東福寺六波羅門 並びに東司修理工事報告書』。
 昭和53年(1978)に行われた六波羅門と東司(重文・室町時代)の修理工事についてのレポートです。
 戦前はともかく、現在では必ず、解体修理をはじめとする指定文化財の修理にあたっては、完了後にこのような報告書が刊行されます。真っ白な表紙にタイトルだけが記された、そっけない冊子ですが、個々の建造物について知るにはこれに勝るものもありません。写真や図面も多数掲載されています。


 いつ「四脚門」になったか?

 この報告書でも、六波羅門は、その構造形式として「棟門」と記載されています。棟門とは、左右の本柱の上に屋根を載せた簡素な造りの門です。
 ただし、「本柱円柱、控柱方柱」となっていて、控柱(袖柱)があることが明記されています。

 まず、この門についてのエッセンスを引用しておきましょう。

 六波羅門についても、資料が乏しいので詳らかでないが、様式としては鎌倉初期に属し、文明11年(1479)以前に描かれたと思われる伝雪舟筆の「東福寺伽藍図」には見当たらなく、正保3年(1646)の「境内古図」に始めて現れるが、今回の解体修理に於て発見した屋根丸瓦には、宝徳3年(1451)の箆[へら]書銘があって、鬼瓦も同時期の製作と思われる。
 また各木部取付け釘穴は3個あり、旧番付も発見されそれによれば、現在南向であるが西向の門であったことが判った。
 これ等よりみれば建立当初から室町時代に一度解体修理を受け、当初の棟門に転用材の控柱を補加し、四脚門としたものである。
 現在地の門は、前記文明11年から正保3年の間に、四脚門として移建したものと思われ、江戸時代に入って修理を受けていることも、化粧及び野物材の後補材によって判り、明治にも屋根葺替が行われたと推定出来る。(2ページ)


 要約すると、

(1)この門は、最初は別の場所に建てられていた、(2)そのときは西向きだった、(3)1451年に瓦の葺き替えなどの修理を受けている、(4)おそらくそのとき、控柱を付け足して「四脚門」のようになった、(5)その後、1479年~1646年の間に現在地に移築された、(6)移築したとき南向きに変わった

 ということのようです。

 東福寺六波羅門


 別の場所から移築された六波羅門

 六波羅門がいつ建てられたかは、はっきりとは分かりません。ただ、形式から鎌倉前期のものだと考えられています。
 例えば、懸魚(げぎょ)。

 東福寺・六波羅門

 梅鉢懸魚ですが、古い雰囲気を残しており、鎌倉時代の遺品とも考えられます。

 この門が元々建っていた場所は、具体的には不明なのですが、六波羅門と通称されていて、京都・六波羅にあった平家の邸宅(六波羅第)だったといわれています。ただ、このあたりは資料的には裏付けられないようです。
 木造建築は、今日私たちが思っている以上に移築されており、特に門は動いているものが多いのです。この門もその一例です。

 次に、元の場所では西向きに建っていたという点です。
 これがなぜ分かったかというと、材につけられた「番付」が証拠でした。
 番付とは、建築に使われる部材に振る記号や番号のことで、組み上げる際これを付けておくと、どこの位置に取り付ける部材かが分かるわけです。古風に、「いろは」とか「一二三」などを用い、墨で書きつけておきます。

 六波羅門の場合、男梁の下端に「南東」や「東北」という番付があったり、舟肘木の上端に「南」や「北」といった番付がありました。
 例えば、その「南」は現在門の東にあり、「北」は西にあります。つまり、元は90度時計まわりの向きで建っていたことが分かるのです。
 すなわち、西を向いて建築されていた門なのでした。

 このように、材に振られた番付は、建物が建っていた向きを推理する大きな手掛かりになります。



 元は棟門だった

 完成当初は棟門だったという点について見てみましょう。
 これは、2つのことから分かるようです。ひとつは、門の構造。もうひとつは、控柱とその周辺の様子からです。
 
 東福寺・六波羅門

 六波羅門には、丸い本柱が立っています。
 上部に行くと、女梁(めばり)、男梁(おばり)が本柱にはまり、さらに板蟇股がはまっています。本柱が、冠木を越えて板蟇股を挟み込んでいる様子がうかがえます。
 この形が、棟門の特徴です。本柱に梁や蟇股を挟み込むことによって、構造を安定させるのです。門柱が2本しかない棟門ですから、こういう工夫がなされています。ちなみに、柱の上部にほぞを作ってはめ込むやり方を「輪薙ぎ込」(わなぎごみ)というそうです。

 いまひとつは、材の風触です。
 控柱の最上部は男梁に当たっているのですが、元からこの形だと、男梁のその部分は風雨にさらされず綺麗なままのはずです。ところが、解体してみると、その部分に雨風にさらされて“くたびれた”様子がうかがえたのです(これが風触ですね)。ということは、元は控柱がなかったと推測できるわけです。
 これは、解体してこそ分かった事実ですね。

 これらの理由で、この門が完成当初は棟門だったと判明したわけです。

 また、控柱と本柱をつなぐ腰貫(こしぬき)のうち、北東のものに「東南」の番付が発見されました。これも90度回転していることが分かります。
 このことから、控柱も移築以前に設けられたことがはっきりしました。おそらく、宝徳3年(1451)の修理時に取り付けられたものと推測されています。


 解体修理で直したところ

 せっかくですから、昭和53年(1978)の解体修理の際に、直された部分を紹介しておきましょう。

 東福寺・六波羅門

 本柱(写真は東側)の下部は、腐朽していたので根つぎをして直されています(黄色の文字のあたり)。
 また、解体して分かったのは、礎石に方立(ほうだて)と扉の軸を差し込む穴が開いていたことです。扉の軸穴はともかく、方立の穴まで穿つのは珍しいそうです。

 東福寺・六波羅門
  西側の腰貫

 こちらは、控柱(西側)と腰貫です。西側の貫は、本柱側が腐っていたため、新材と取り換えられました。前回ふれたように、東側(下の写真)と比べると見るからに新しいです。
 東側のものは500年以上、西側のものは僅か30年余りですから、部材の風触のさまも随分と異なりますね。

 東福寺六波羅門
  東側の腰貫

 ちなみに、扉もこの修理までは破損して失われており、修理で取り付けられたのだそうです。

 というふうに、修理工事報告書を読むと、いろいろなことが分かります。
 前回の私の推理で、控柱が後補だったことは正解でしたが、それが天正の地震のあと秀吉によって付加されたものだった! という大胆推理は、大ハズレでした(汗)
 控柱を付けて四脚門にしたのも、意外に古かったわけです。

 こんなふうに、現地を見たり、報告書を読んだりすると、とても愉しめますね。
 建物で、いろいろと遊んでみましょう!

 東福寺・六波羅門





 東福寺 六波羅門(重要文化財)

 所在 京都市東山区本町
 拝観 自由
 交通 京阪電車「鳥羽街道」下車、徒歩約10分



【参考文献】
 『重要文化財東福寺六波羅門並びに東司修理工事報告書』京都府教育委員会、1978年
 『解説版 新指定重要文化財 11 建造物Ⅰ』毎日新聞社、1981年


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