興正寺の経蔵が、デザイン&人間模様で、不思議と魅力的!
|洛中(下京区)|

西本願寺の<南>に興正寺あり
京都の人でも「興正寺」と聞いてピンとくる人は少ないでしょう。いまは観光寺院ではないし、あまり宣伝もされていないようで…… しかし、ロケーションは西本願寺の南側と、とても便利な場所。実際に訪ねてみると、欧米のツーリストがたくさん来ています。西本願寺に較べると敷地も狭い、ということになりますが、それだけで見ると立派な伽藍です。
「都名所図会」(1780年)にも、西本願寺と東本願寺に挟まれて登場していて、大きな本堂や対面所などが描かれています。真宗寺院なのに本堂はひとつなのですが、これは「一つ御堂」と呼ばれ、『お寺まゐり』などを見ると「日光の本廟、知恩院の山門と共に、日本三建築と称された程であつた」と記されています。
明治9年(1876)に西本願寺から分かれ、現在は真宗興正派の本山です。
ということで、今回は興正寺にスポットを当ててみましょう!


経蔵がおもしろそう!
堀川通から三門を入ってぐるっと見渡すと、御影堂と阿弥陀堂が南北に並び、左手に鐘楼、右手に経蔵があるという配置です。阿弥陀堂の前には、阿弥陀堂門があります。また御影堂の裏手には表対面所・奥対面所などがあります。浄土真宗の寺院に共通する伽藍配置がうかがえます。
興正寺の建物の多くは、明治35年(1902)11月の火災で焼けてしまいました。このとき無事で、伽藍で一番古い建物が鐘楼です。

安永3年(1774)のもので、袴腰のついた楼造の鐘楼です。
御影堂(明治45年竣工)や阿弥陀堂(大正4年竣工)は火災後の再建になります。
そんな中で、ひときわ異彩を放っているのが、この建物!

経蔵です。こちらでは法宝蔵とも呼ばれていましたが、要は経典を収めておく蔵のことです。嘉永元年(1848)に建てられました。この建設にまつわる人間模様がなかなか興味深いのですが、まずは建物自体から見て行きましょう!

正面から見たところ。初層が土蔵造になっていて、二層目とのコントラストが何ともいえません。屋根は、経蔵によくある宝形造ですが、唐破風を付けています。しかも、初層の入口のひさしも唐破風になっていて、くどいくらい正面性を強調しています。この“しつこさ”は幕末っぽくていいですね。微妙な屋根の反りも心地いいです。

唐破風の上には、宝珠を弄ぶ龍の瓦が載っていたりして、遊び心いっぱいですね。

横から見たところ。初層の窓の形や刳り形も特異です。なかでもクローズアップしたいのが、高欄(欄干)です。石積みの段上に、花崗岩の高欄が廻らしてあります。

こんな感じですね。私が注目しているのが、手前の親柱の頭に付いている造形。

鋳造です。何の形か分かりますか?
実はこれ、蓮(ハス)なのです。それも逆さまにした……
蓮は仏教とゆかりの深い植物。お寺の蓮池でもよく見かけますね。泥の中に美しい花を咲かせます。
高欄の親柱には擬宝珠(ぎぼし)を付ける例が多いのですが、禅宗様ではこのような逆さまの蓮を付けます。これを「逆蓮」(さかばす、ぎゃくれん。逆蓮柱)と呼んでいます。大陸から禅宗様とともに入ってきた意匠ですから、古代の建築には見られないそうです。
この経蔵の逆蓮は、造形としてはリアルだけれども実際の蓮とは掛け離れた意匠です。そして、逆蓮としても珍しいデザインです。
よく見るタイプは、こんな感じでしょうか。

宇治の萬福寺の三門にある逆蓮柱。ちょっと四角形ですけれど、ポピュラーな形です。素直に見ると、蓮というより、ナスビの頭みたいですね(笑)
この逆蓮のモチーフ、日本のみならず海外にも見られます。中村達太郎博士は、ペルセポリスの柱頭や古代インドの建築にも用いられていると指摘されています。エジプトなどにも蓮の柱頭はあって、植物ゆえ建築意匠にもよく取り入れられているようです。
さらには……

高欄の鉾木(写真の上端に見える円柱状の石材)を支える石ですが、これも蓮モチーフの一種で、一般に「握蓮」(にぎりはす)といわれるものです。これも、よくある握蓮とは異なるデザインで、あまり蓮らしくないかも知れません。
逆蓮柱と握蓮までは普通ですが、まだ蓮が見られます。

石階の脇の高欄に……

よく見ると、蓮でしょう。葉と実みたいですね。ここまで蓮にしてくると、ちょっと敬意を表したくなります。幕末らしい、デザインへのこだわりに拍手!
新朔平門院と孝明天皇
デザイン面を見たあとは、この経蔵にまつわる人間模様について記しておきましょう。
嘉永元年(1848)建立ですが、懸けられた「法宝蔵」の額は、孝明天皇から賜った勅額といいます。揮毫は、幕末の能書家として知られる近衛忠凞(ただひろ)。孝明天皇の書の先生でもありますから、当代を代表する書家といってもよいでしょう。
では、なぜ天皇の勅額がこの寺院の経蔵に掲げられているのでしょうか?
当時、興正寺の門主は27世・本寂(ほんじゃく)でした。本寂上人は、のち西本願寺から離れ真宗興正派をおこした人で、幕末の動乱期を乗り切ったリーダーでした。
彼は出家しましたけれど、もとは五摂家の一つ鷹司家の出身で、鷹司政通の次男です。ちなみに、三男は仏光寺の25世・教応で、兄弟で真宗の大寺院の門主を務めていたことになります。父・政通は30人以上きょうだいがいますが(その父は鷹司政凞)、その中に仁孝天皇の女御・新皇嘉門院(繋子)がいました。しかし、彼女は難産のために若くして落命します。それに代わって天皇の女御となったのが妹の祺子(新朔平門院)でした。
彼女が養子としたのが統仁親王で(実母は新待賢門院)、弘化3年(1846)に仁孝天皇が没すると、孝明天皇となります。興正寺の本寂上人と新朔平門院は、おい・おばの関係で、孝明天皇と興正寺は深いつながりがあったのです。
ところが、弘化4年(1847)10月、新朔平門院は亡くなります。翌年、本寂上人が造営していた経蔵が竣工しますが、彼女の遺志により、孝明天皇の勅額を賜ることになったのです。
経蔵に勅額とは珍しいですが、このようないきさつがあったのでした。
興正寺、なかなか興味深いです。京都駅からも近いので、一度訪ねてみてください。

興正寺
*所在 京都市下京区堀川通七条上ル
*拝観 境内自由
*交通 JR京都駅より、徒歩約10分、市バス七条堀川下車、すぐ
【参考文献】
『お寺まゐり』鉄道省、1922年
中村達太郎『日本建築辞彙[新訂]』中央公論美術出版、2011年
天沼俊一『日本建築細部変遷小図録』1944年、星野書店
森岡清美「真宗興正派の成立」(「日本常民文化紀要9」所収)
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