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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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和知の「大御堂」 - 下粟野観音堂






下粟野観音堂


 丹波というところ

 丹波は私の父祖の在所で、船井郡のSという村ですが、訪れたのはただの一度切り、縁があるようでありません。
 そのあたりは日本海側と太平洋側の分水嶺に当たるところで、かつて米山俊直氏に「小盆地宇宙」と評されたように、小さな町や村がぽつりぽつりと浮かぶ、そんな土地柄でした。

 しかし今では、京都縦貫道が通じたおかげで、京都市内から丹波インター-須知(しゅうち)のこと-まで30分で行けます。須知からさらに奥に入ると、和知(わち)に至ります。ここは現在、京丹波町というそうです。
 本当に自然の豊かな山間の村。こんなところに重要文化財のお堂があるといわれても、すぐには信じられません。



 「大御堂」

 下粟野は、由良川の支流、上和知川を遡った山合いの集落。ウッディパルわちという施設があります。

下粟野集落

 写真の奥に見える小高い山を少し上ったところに、重要文化財に指定された観音堂があります。
 地元では「大御堂」と呼ばれてきたお堂で、その名称は、このあたりに多く見られる村堂に比べて一際規模が大きいことに由来するのでしょう。桁行五間、梁間五間、ほぼ正方形をしています。和知の他の村堂が方三間なので、この方五間は際立ちます。
 寄棟造の屋根は、鉄板で仮葺きされていますが、中は茅葺になっています。
 山の斜面を整地して建てたらしい、さほど広くない場所に押し入れられた感じにも見えます。

 建立年代は、かつては江戸時代とも考えられていました。昭和55年(1980)に刊行された『京都の社寺建築(乙訓・北桑・南丹編)』には、「江戸時代後期頃の建立かと思われる」との見立てが示されています。現在では、室町時代後期、棟札にみえる文明6年(1474)か、十字型木製車の刻銘にみえる天文8年(1539)あたりかと考えられていて、近世・近代に建てられたものが多い和知の村堂の中でも、突出して古い建物です。


 落書を見る

 村の人々によって維持され、特定の宗派には属さないが、信仰や寄り合いの場となっていた村堂。藤木久志氏のいう中世の「惣堂(そうどう)」と同様です。
 藤木氏は、惣堂に書かれた落書から、お堂に立ち寄った人々の生の声を拾い出しました(『中世民衆の世界-村の生活と掟』)。私もそれに倣って、下粟野観音堂の堂内で、墨書による書き付けを探してみます。

下粟野観音堂

 一番目立つのは、これ。もちろん落書ではなく、厨子の新調を示す墨書です。

「時弘化三午八月吉祥日/寿命山明隆寺御厨子幷仏壇再造/化主 地蔵院全瑞代誌焉」

 つまり、弘化3年(1846)8月に厨子と仏壇を造り直したことを、その裏側の板壁に記しています。当時、このお堂は明隆寺の管理下にありました。

下粟野観音堂

 振り返ると、柱にこんな墨書が。

「吉兵衛/寄進」

 おそらくは、この柱を寄進した人の名なのでしょう。室町時代のものなのか、それとも後に差し替えた柱なのか…

 さて、堂内には落書がたくさんあります。
 たとえば、寄り合いに集う人達が書いたのでしょう、「火の用心」というものがいくつかありました。

下粟野観音堂

 それ以外にも、十分には判読できないのですが和歌もありますし、定番の住所氏名もあります。

下粟野観音堂

 内陣の脇に「京都府/船井郡」云々と書かれています。

 しかし管理者としては、落書禁止にしたいのは、いつも同じ。先ほどの柱の脇の扉には、こう書かれています。

下粟野観音堂

「らく書かたく無用/月日 明隆寺/役者」

 落書お断り、という意味ですね。
 でも、そのすぐ脇に、

「一筆啓上仕候(つかまつりそうろう)」とあるのには、苦笑です。


 集いの場として

下粟野観音堂

 このあたりの村堂には炉を切ってあるものが多いそうです。下粟野の観音堂も、内陣の左方、つまり脇陣の部分に炉が切られ、建具を入れれば一間になる空間があります。よく見ると、柱や天井は煤けて真っ黒!

下粟野観音堂

 寒い冬、ここで縄を編んだりしながら、皆でよもやま話をしたのでしょうか。
 地域によっては、若者が集まる若衆宿といったものもありますが、こちらのお堂もそのような役割を果たしていたのでしょう。
 下粟野の観音堂は、そばにある阿上三所神社とともに、地域の人々の信仰の場となり、また集いの場ともなっていたのです。
 
下粟野観音堂
 東側面 現状では建具は外されており、四周に縁が廻らされる



 下粟野観音堂(重要文化財)

 *所在:京都府船井郡京丹波町下粟野
 *拝観:自由(堂内も可、無料) ・本尊の木造観音立像は秘仏
 *駐車場:観音堂の下に数台スペースあり(無料)
 *すぐそばには、阿上三所(あじょうさんしょ)神社もある

 阿上三所神社
 阿上三所神社(下粟野)


 【参考文献】
 熊本達哉「日本の美術 530 近世の寺社建築-庶民信仰とその建築」2010年
 熊本達哉「丹波地方における「堂」について-「村堂」に関する基礎的考察」日本建築学会大会学術講演梗概集、1995年 
 森雄一「惣堂・村堂の存在形態-京都府和知町の事例を通じて-」日本建築学会計画系論文集573号、2003年
 藤木久志『中世民衆の世界-村の生活と掟』岩波新書、2010年
 『京都府の社寺建築(乙訓・北桑・南丹編)』京都府文化財保護基金、1980年


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