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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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上方芸能の行く末 -文楽・竹本住大夫さんの引退会見に思う -

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  国立文楽劇場


 2月28日、文楽太夫・竹本住大夫さんの引退会見が行われました。

 住大夫さんが退かれることについては、いつも頭の片隅にあり、また皆でも話していたことですが、ついにその日が来たかという思いです。大阪で聴けるのも、もう4月だけでおしまいとは、余りに名残惜しい。
 その芸の素晴らしさは、改めて私がここで言うまでもありません。決して美声とは言えないけれど滋味深い声音、子供からお婆さんまで絶妙な人物の語り分け、そして独特の間が聴く者を泣かせます。

 京・大阪の芸能を「上方芸能」と言います。しかしその上方芸能は、いったいどうなっていくのでしょうか。

 人形浄瑠璃(現在の文楽)は、おそらく元々は人形操りの奇抜さが大衆に支持され隆盛していったのでしょう。いまでいうと、プロジェクション・マッピングという最新技術で幻想的な映像を投影して人々を楽しませるのと同じようなものです。あのリアルな人形操りが、江戸の「ハイテク」だったわけです。
 しかし、そのような新奇性は、すぐにあきられます。人形浄瑠璃が「下り坂」だ、危ないと言われたのは、なにも最近に始まったことではなく、すでに戦前から言われています。
 では、新奇性を失った芸能がどこに活路を見出すかといえば、物語の内容において大衆の「共感」を得る、という部分に尽きます。
 そこで、語り(浄瑠璃)の重要性が現れてきます。共感の得られる筋書を情感たっぷりの語りで訴え掛ける、という世界になってくるわけです。
 
 ただ、そのストーリーも、いつまでも新しいものが生み出されたわけではありません。文楽に新作がないわけではありませんが、ほとんどが古典の繰り返しです。これは、より大衆の支持を得たストーリーを何度も何度も繰り返すという、よきマンネリズムです。「水戸黄門」的構造ですね。

 ところが、正直思うのは、文楽の一番苦しいところは、話している言葉が聞き取れない、分からない、という点だと思うのです。
 現在、文楽劇場には字幕装置が取り付けられていて、語りを文字で読めるようになっています。この導入のとき、確か住大夫さんは反対されていたと思います。お客さんが聴いて分からないような語りをしているようでは駄目だという趣旨だったと記憶します。
 浄瑠璃は「聴く」ものなのだから、それを文字で追っ掛けていては駄目なのは、はっきりしています。最近テレビ番組でもやたら字幕(テロップ)が付いていますが、ある漫才師さんが、自分らは聴かせてナンボの芸なのに字幕を付けられたらお終いや、みたいなことを言われていましたが、住大夫さんと同じ考え方です。
 ただ、現代人にとって、太夫の語りが分からないのも、また事実。時代の壁です。
 そして、言葉が理解できなければ共感も出来ない。そこで、初心者はまず人形の動きを楽しんでみてください、ということになる。人形浄瑠璃の始源に逆戻りですが、その動きが奇抜とまではさすがに思えず、そこに「美」を見出すという方向になってくる。そうすると、これはもう「芸能」ではなくて「芸術」です。芸術になれば、もはや大衆のものではなく、一部の限られた人たちのものになってくる。だから、お客さんも減っていく。
 そういう構造になってきたわけです。

 このことは、文楽に限ったことではありません。上方芸能全般について言えることです。お客さん側からみると、その芸能が表現していることについて理解できないし、共感もできないのです。そして、大勢の人たちが共感できないものは、芸術にしてしまうか、あるいは「古典芸能」(よく考えると変な言葉ですが)として祀り上げるか、どちらかです。

 こう考えてみると、上方芸能に対して、大勢の人が見るようにしないといけない、という考え方は、現在においては正しくありません。芸術なのだから、本来ならパトロン(一部の富裕な人々)が支えればいいのだけれど、そのパトロンがいないジャンルにおいては、社会的コンセンサスによって社会全体で支えていく、という構造を取ることになっています。つまり、税によって保護するということなのです。

 ひと口に上方芸能といっても、ジャンルによって事情は異なります。漫才も上方芸能なら、舞も上方芸能です。置かれている状況は全く違います。だから十把一絡げに論じられないのですが、少なくとも文楽や一部の芸能については上の事情があてはまります。

 文楽はすでに世界遺産ですし、そもそもやっている劇場も国立です。ふつう、国立の劇場でやる「芸能」ってありません。ここには近代的なねじれた構造があるわけで、その中で文楽を「芸術」的に、言い換えれば「古典芸能」的に残していく道を選んできたわけです。文楽や上方芸能について考える場合、その前提をまず認識したうえで話を進める必要があると思います。

 住大夫師匠の引退の報に接して、より一層考えさせられる今日この頃です。


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