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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS朝日「京都ぶらり歴史探訪」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

平安貴族・源融の河原院の名残りを伝える渉成園は、京都駅前にあるのどかなスポット





渉成園


 京都タワーが見える名庭

 京都駅やその近所に行くとき、よく通るのが渉成園の前。東本願寺の別邸です。

 渉成園
 渉成園の脇。修理中の東本願寺の門が見える

 私の小さい頃の記憶では、もっぱら「枳殻邸(きこくてい)」という呼び名を使っていたように思います。文字通り、枳殻=カラタチの垣根があるんですね。

 渉成園

 門は、西側に。

 渉成園

 拝観を申し出て協力金を志納すると、26ページもあるオールカラーの小冊子がいただけます。これは、うれしい!

 園内から京都タワーが見えるところが、駅近という感じですね。

 渉成園


 源融の河原院 

 この渉成園の庭ですが、長く平安貴族・源融(とおる)の邸跡だといわれてきました。
 源融(822-895)は、嵯峨天皇の子息で左大臣、大納言などを歴任した公卿です。臣籍降下して、源姓を賜りました。「源氏物語」の光源氏のモデルの一人だとされ、その邸も「源氏物語」の六条院のモデルともいわれます。
 ニックネームは、「河原院」という邸宅に住んでいたので「河原左大臣」。百人一首に「みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに」の和歌が収載されていますが、それについては後でふれましょう。

 この融の邸・河原院は、現在の河原町五条の南側一帯にありました。
 平安京の時代風にいうと、北は六条坊門小路【五条通】、東は東京極大路【鴨川の西側】、南は六条大路【六条通】、西は万里小路【柳馬場通】に囲まれた区画です(【 】内は現在のおよその通り名)。
 現代風にいうと、1辺が約250mもある大邸宅が、河原院の名の通り、鴨川の西に広がっていたのでした。

 お気付きのように、渉成園はこの場所の近くですね。そのため、古くから渉成園は融の邸の名残りだと思われていました。
 作庭家で庭園史の研究者でもある重森三玲(しげもり みれい)は、昭和18年(1943)に出した『日本庭園』の中で、次のように述べています。

 [貞観14年=872] 源融が左大臣に任ぜられたが、融公はこの前後、宇治、嵯峨、河原院の各別業を作り、何れも荘大な園池を作つた。宇治、嵯峨の山荘は共に今日保存されてゐないが、嵯峨の山荘は棲霞観と云つて、その泉石の美しかつたことが「本朝文粋」に記されてゐる。
 この内河原院(京都市河原町正面西側)のみは渉成園と称して、今東本願寺の有になり保存されてゐる。この地は「拾芥抄」の記事からすれば、現存の地より東北の角に当るので、渉成園即ち河原院の園池でないと云ふことに成るが、池泉様式や、中島の配置、又は中央の蓬莱島や後部の亀島の石組は、よくこの時代の手法を保存してゐるから、「拾芥抄」の記事の方こそ間違つてゐるのではないかと言へる。
 融公はこの園池に陸奥の塩釜の景を写し、難波から日々海水を運んで塩を焼いたと伝へられ、今も附近に塩小路の名さへある。(74ページ)


 重森は、渉成園=河原院と比定しています。渉成園の園池のさまが平安時代のそれをよく伝えているので、文献史料の方が誤っているという推理です。

 渉成園

 平成8年(1996)、河原町五条西入ル(五条通の北側)で発掘調査が実施されました。ここは、文献によると、融の河原院があった場所の一部に当たるところでした(敷地の北の端あたりになります)。
 発掘すると、平安時代の池と思われる遺構が検出されました。深さ1.3mで、底に薄く粘土を貼った上に、こぶし大の川原石を敷き詰めているものです。松や桃といった植物の種子なども見出され、植樹があったことが分かります。

 この発掘成果は、文献史料に記録されている場所に河原院があったことを示していて、現在の渉成園は融の庭そのものだとは言い難いようです。
 しかしながら、渉成園には源融のよすがをしのぶ要素がいくつもあります。


 石川丈山の作庭

 渉成園の庭は、詩仙堂で知られる石川丈山が17世紀半ばに作庭したものです。
 池を中心に回遊して楽しむ庭園ですが、たくさんの見所があります。

 渉成園
  回棹廊

 渉成園
  臨池亭

 渉成園
  侵雪橋 


 源融ゆかりの「塩釜」
 
 渉成園

 印月池と呼ばれる大きな池の東端あたりです。
 左に石塔が立っています。

  渉成園

 九重塔。
 上部の笠は宝篋印塔の一部を乗せたものですが、下部には石仏のレリーフもあります(かなり磨滅していて見づらいのですが)。
 この塔は、源融の供養塔とされています。

 そして、茶室・縮遠亭の脇には、珍しい形の手水鉢があります。

  渉成園
   手水鉢「塩釜」

 塩釜という手水鉢。宝塔の一部を用いたもので、鎌倉時代にさかのぼるものとされます。
 また、縮遠亭の下には井筒があり、こちらも「塩釜」と呼ばれています。

 渉成園
  塩釜

 奥州の塩釜(塩竈、現在の宮城県塩竈市)は、古来、歌枕として都人にも知られていました。「古今和歌集」に、< みちのくはいづくはあれど塩釜の浦こぐ舟の綱手かなしも >があります。
 源融も、河原院にこの塩釜の景を模したのです。
 「古今和歌集」には、「河原の左大臣[源融]の身まかりてのち、かの家にまかりてありけるに、塩釜といふ所のさまをつくれりけるをみてよめる。 < きみまさで煙たえにししほがまのうらさびしくもみえわたるかな >[紀貫之]」とあり、紀貫之の歌が紹介されています。

 融は毎日30石の海水を難波から運び、塩焼きをして、その鄙びた風情をめでたと伝えられます。

 その河原院は、融の没後、子息から宇多法皇に譲られました。その際の少し怖い逸話が「今昔物語集」巻27-2に語られています(大意です)。

 今は昔、川原の院は融の左大臣が造営して住んでいた家である。陸奥国の塩釜の形を造って、潮水を汲み入れて池にたたえていた。大臣が亡くなってからは、その子孫が宇多院に奉献した。

 院が住んでおられた時のこと、ある夜半に、西の対屋の塗籠[ぬりごめ。寝室に使う部屋]を開ける人の気配がした。見ると、束帯姿で太刀と笏[しゃく]を持った人が畏まっていた。

 院が、「そこにいるのは誰か」と尋ねると、男は「この家の主の翁です」と答えた。

 院 「融の大臣か」
 男 「そうです」
 院 「どういう用向きか」
 男 「我が家ですのでここに住んでおりますが、院が来られると畏れ多く気づまりするのです。どういたしましょう」

 そう述べるので、院は「おかしなことをいうものだ。私は他人の家を盗み取った覚えはない。大臣の子孫から献上されたものである。霊とはいえ、事の理をわきまえず、なんということを言うのか」と一喝した。
 すると、霊は掻き消すように失せてしまい、その後は現れることはなかった。(「川原院融左大臣の霊を宇陀院見給へる語」)


 なんとも、融大臣はこの邸を大切に思われていて、亡くなった後にも未練があったのでしょうか。
 不思議な説話ですが、実際の河原院は11世紀初頭には荒れ果ててしまっていたようです。



 渉成園(枳殻邸) (国名勝)

 所在 京都市下京区下珠数屋町通間之町東玉水町
 拝観 協力寄付金500円以上
 交通 JR「京都」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 『名勝渉成園-枳殻邸-』真宗大谷派宗務所、2011年
 重森三玲『日本庭園』一条書房、1943年 
 『日本古典文学全集 今昔物語集4』小学館、1976年
 『平成6年度 京都市埋蔵文化財調査概要』京都市埋蔵文化財研究所、1996年


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