09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
MENU

NEW ARRIVAL

PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

今では国際マンガミュージアムになった旧龍池小学校は、学区の人たちの誇りを凝縮





旧龍池小学校


 福澤諭吉も賞讃した京都の小学校

 私の卒業した小学校は、明治6年(1873)に創立されました。今でこそ京都市内ですが、当時は愛宕郡(「おたぎぐん」と読みます)に属していました。在学中に創立百周年を迎え、記念誌が刊行されたほか、記念品になぜか「爪切り」をもらった記憶があります(笑)

 そんな伝統ある母校は私の誇りですが、もともとの京都市内で小学校が創設されたのは、それより早く明治2年(1869)のことでした。これは事実上、日本の小学校の初めといえます。市内中心部の小学校は、明治初頭に町組(ちょうぐみ。町の連合体)を再編成した「番組」ごとに設置されたので、「番組小学校」と呼ばれます。番組小学校は、あわせて64校開かれ、当初は「上京(下京)第○番小学校」というナンバーで呼称され、のち現在のような名前が付けられます。

 明治5年(1872)5月、京都を訪れた福澤諭吉は、名所旧跡を見るのでもなく、博覧会見物をするのでもなく、まずもって京都の学校を視察したのでした。

 民間に学校を設けて人民を教育せんとするは、余輩、積年の宿志なりしに、今、京都に来り、はじめてその実際を見るを得たるは、その悦(よろこび)、あたかも故郷に帰りて知己朋友に逢ふが如し。おおよそ世間の人、この学校を見て感ぜざる者は、報国の心なき人といふべきなり。(「京都学校の記」)

 学校を作って人々を教育することは、福澤にとって長年の宿願でしたが、実際に京都で学校を見ることができ、長らく抱いてきた夢が実現している姿を目の当たりにして大変うれしかった、と述べているのです。

 福澤は、当時の京都の小学校について、実に要点を押さえた紹介を行っています。彼の言を借りて、その特徴を列記しておきましょう。

・明治2年より基を開き、中学校が4校、小学校が64校ある。
・市内を64区[実際は最初65区、のち66区]に区分しているのは、西洋のスクールヂストリツクト[school district:学区]で、区内の貧富を問わず、男女7、8歳より13,14歳の者が皆教育を受けられる。
・学校内では、男女別に「手習」[「筆道」を指す]をしており、それとは別に講堂があって「手習」の空き時間に「読書」「数学」を学んでいる。
・1校には、「筆道師」「句読師」「算術師」が1人ずつおり、助教の数は生徒数によってさまざまである。
・学校は、朝8時に始まり、午後4時に終わる。
・科業は、いろは五十韻、用文章などの「手習」、九九、加減乗除、比例などの「算術」、府県名、国尽し、地理、窮理、経済などの「句読」があり、毎月あるいは春秋に試験がある。
・小学校を5等に分け、試験で昇級し、5等を終わった者は中学校に入るのだが、学校は設立されたばかりなので、まだ入学者は少ない。
・小学校の建設費用は、半分を官より補助し、もう半分は市中の富豪が出し、建物を建て書籍を購入し、残金は貸金して利息を取って学校運営の資金にする。また、学区内の戸ごとに半年1歩ずつ出させて資金としているが、それは家に子供があってもなくても同様に負担させている。
・生徒数は、少ない小学校は70人から100人、多い小学校は200人から300人である。
・校内は極めて清楚で、壁にキズはなく、席を汚す者もなく、おしゃべりなどもなくて秩序立っている。
・学校のかたわらには、その学区の町会所の席を設けてあって、町の用を行いながら生徒の世話もできるので便利である。
・教師は、官により任命されているけれども、給料は町年寄から出しているので、官員ではない。給料は学区の大小や生徒の多寡によりまちまちでり、多い者は月12,13両、少ない者は3、4両である。
・明治5年4月時点の小中学校の生徒数は、15,892人。男女比は10:8である。


 事細かに京都の小学校事情をまとめていて、福澤の教育にかける情熱が伝わってきます。省略しましたが、中学校についても記述されています。
 このように、明治の初めから地域の人たちによって精力的に推し進められた京都の初等教育は、全国の模範となったのです。


 上京第二十五番組小学校としてスタート

 旧龍池小学校
  現在の旧龍池小学校(登録文化財、京都国際マンガミュージアム)
  両替町通側の旧正門をのぞむ

 龍池(たついけ)小学校は、明治2年(1869)11月1日、上京第二十五番組小学校として、御池通両替町西入ル龍池町で開校しました。明治9年(1876)には新校舎を建築して、現在地(中京区烏丸通御池上ル金吹町)に移転しています。
 学区の範囲は、北は二条通、東は烏丸通、南は三条通、西は新町通に囲まれた地域で、その中に22の町が含まれていました(学区は後に拡大しています)。
 この上京第二十五番組小学校は、設立資金を京都府に頼らず、すべて住民からの出資で賄いました。各戸より1分2朱を徴収して300両を集め、さらに寄付金1,700両を得て、あわせて2,000両の資金で学校を建設したのです。
 福澤が記しているように、府と地元が折半という原則からすると破格の出費で、その功によって府から賞詞を得た、つまりお褒めに預かったのだそうです。

 明治9年に新たに建築された建物のメインは、校門のすぐ内にある講堂のあった建物でした。木造2階建ですが、1階・2階の正面に唐破風を付け、屋根上に望楼(火の見櫓)をのせたシンボリックな建築です。明治時代の小学生の回想では、“お寺みたいな”と言われる雰囲気を持っていました。
 その後、折々に増築されますが、明治27年(1894)に増改築を行い、明治39年(1906)にも大規模な増改築を行っていますが、これは日露戦勝記念と銘打たれていたようです。
 昭和に入って、おそらく「御大典」記念ということだと思われますが、校舎改築のプランが持ち上がります。その結果、実現したのが現在残されている建物群です。

 ところで、龍池小学校の年表を見ていると、しばしば増改築が行われ、地域からもかなりの出資が行われています。やはり、地元の経済力が気に掛かるところなので、昭和の新校舎にふれる前に、そのことを少し見ておきましょう。


 学区の経済力が高めた校舎のグレード

 現在の中京区は、まさに京都の中心部ですが、およそ三条通より南は祇園祭の鉾町で経済的にも裕福でした。

 当時の資料で各種の税額を見てみると、最も富裕な地区は四条烏丸北側の東西にある日彰学区と明倫学区でした。
 龍池学区は、烏丸御池の北西の学区なので鉾町ではありませんが、経済力では日彰や明倫に次ぐクラスだったことが分かります。このことは、学区の人々が負担することも多かった校舎のグレードを高くしたのです。

 龍池小学校の昭和初期の改築は、そのことがよくうかがえます。

 旧龍池小学校
  東側から見た校舎

 これは烏丸通側から見た校舎の配置です。
 写真の左側に本館が見えており、右側には北校舎が見えています。

 旧龍池小学校

 龍池小学校は、現在は京都国際マンガミュージアムになっているわけですが、ミュージアムの入口は烏丸通にあります。ところが、かつての入口は正反対の西側(両替町通)にありました。

 旧龍池小学校
  両替町通

 旧龍池小学校
  正門と本館

 こちらが正門と玄関です。
 ここを入ると、真正面に校長室がありました! 竣工時には、写真の左右出っ張った部分の1階に理科教室(右)と工作などをする手工室(左)がありました。また、その上の2階には裁縫室とピアノが置かれた唱歌室がありました。特に裁縫室は女子生徒が作法や裁縫を学ぶ部屋ですので、畳敷きになっていました(現在もそのままで、和風の室内意匠が見どころになっています)。1階には職員室もありました。

 この建物の北側には、別棟が接続されていました。 

 旧龍池小学校

 この2階が講堂、アーチ窓のある1階が雨天体操場でした。
 この写真に見えている扉は児童昇降口と呼ばれ、ふだん児童たちが通学するのはこの入口からでした。

 この2棟は、講堂のある北側が昭和3年(1928)に、校長室のある南側が翌4年(1929)に建築されています。

 外部、内部とも、意匠はなかなか優れています。

  旧龍池小学校

 玄関両脇にあるランプの台の部分。アールデコですね。

 旧龍池小学校

 玄関を入ったところに貼ってあるタイルです。
 縦に線の入ったスクラッチタイルですが、ほのかな温もりのある感触があり、よく見かける粗い感じのスクラッチとは一線を画しています。

 旧龍池小学校

 ちょっとホテルみたいですね。

 旧龍池小学校

 階段まわりもアーチをあしらったりして、なかなか素敵です。


 光を取り入れる窓
 
 旧龍池小学校
  西側から見た本館

 本館を西側から見ると、真ん中が窪んでいることが分かります。この建物、上から見るとH形なんですね。それだけ採光に気を使っています。

 旧龍池小学校

 右の出っ張りの1階は職員室、2階は教室です。南面に縦長窓が6つずつ配され、明るい空間を実現しています。

 このことは、昭和12年(1937)に増築された北校舎にもうかがえます。

 旧龍池小学校
  北校舎

 この校舎は、1階、2階とも教室(4部屋ずつ)でしたが、ずらっと並んだ窓が圧巻です。
 時計のある部分が階段でした。

 旧龍池小学校
  教室に光をもたらす窓

 この校舎の西階段。モザイクタイルが控えめながら魅せます。

 旧龍池小学校


 創立百周年の作文から

 龍池小学校は、昭和44年(1969)、創立百周年を迎えました。
 開校記念の11月には、『龍池百周年記念誌』が刊行されています。そこには、当時の児童たちの感想や作文も載せられており、私は思わず読み入ってしまいました。

 ふたつばかり紹介しましょう。


  そうりつ百周年  三年  KMさん

 二学期に 学校にきてみると、こうどうや、教室のかべのペンキが、きれいにぬってあった。わたしは、きっと、百周年のおいわいに、こんなに学校をきれいにしてくださったのだと思いました。

 わたしは、おとうちゃんに
 「おとうちゃんが、竜池小学校にいたとき、いちょうの木や、まどの前の木は、どんなにひくかった。」と、きいたら
 「まどの前の木は、おとうちゃんが 子どものときの 高さといっしょで、いちょうの木は、一かいぐらいしかなかった。」と、いわはった。わたしが
 「いま、まどの木は、もうちょっとで三がいにとどくし、いちょうの木は、おく上をつき出て、あと五メートルほどあるえ。」と、いったら、
 「へえー。」と、おどろかはった。

 むかしのようすをきくと、校しゃは、だいぶん古く こうどうのいすは、木のいすだったそうです。また、運動の道ぐは、こうてつぼう、ていてつぼうと、のぼりぼうしかなかった。動物がいなかったので、山しな学舎へ見に行ったことも ききました。

 ひるごはんは、家にたべに帰り、おくすりのかんゆをのんで、あめ玉をもらったそうです。

 わたしは、心の中で、百年の間に 学校のようすも、いろいろ かわったんだなあと思いました。



 京言葉が、とてもかわいい三年生の女の子の作文です。
 次は四年生の女の子。


  竜池百周年記念  四年  MYさん

 百周年、ことしが百さいの学校は竜池校のほかにも何十校とあることでしょう。百さいになり、おいわいに学校ぜんたいをきれいにし、せいけつな学校にかわりました。

 竜池校といえば、おにいちゃんも、おねえちゃんもそつぎょうした学校です。わたしがおとなになったときには科学がしんぽし、いま以上にすてきな学校になっているのではないでしょうか。竜池校の百五十さいのときには、どんなへんかが見られることでしょう。百五十さいのときの竜池校をそうぞうするだけでも心がわくわくしてきます。ほんとうに百周年のことしとどんなちがいが出てくることでしょう。

 いままでわたしたちのせんぱいが百年の間に何千人、何万人、いえ、何十万人もの人たちがそつぎょうし、そのそつぎょう生たちがだんだんとそだててりっぱにそだった竜池校が今の竜池校なのでしょう。木でいくとそつぎょう生たちが少しずつ水をやり、芽を出し、葉がふえ今はせものび、根がはって、りっぱな木になったところでしょう。 

 竜池校の百さいのたんじょう日の年は、アポロ十一号のせいこうした年と同じだったということもよい思い出になることでしょう。



 龍池小学校は、平成9年(1997)3月に126年の長い歴史に幕を閉じました。
 小学校として150周年は迎えられなかったけれど、また新しい施設に姿を変えて、毎日おおぜいの人たちが集まってきているよ、と言ってあげたい。


  旧龍池小学校




 旧 龍池小学校 (登録有形文化財、京都国際マンガミュージアム)

 所在 京都市中京区烏丸通御池上ル金吹町、二条殿町
 見学 京都国際マンガミュージアムは、大人800円ほか
 交通 地下鉄「烏丸御池」下車、徒歩約3分



 【参考文献】
 
 『龍池百周年記念誌』龍池校創立百周年祝賀記念事業委員会、1969年
 『閉校記念誌 龍池』京都市教育委員会、1997年
 『京都小学五十年誌』京都市役所、1918年
 『明倫誌』京都市明倫尋常小学校、1939年
 『福澤諭吉教育論集』岩波文庫、1991年


スポンサーサイト

コメント

俺はヤンデレ寄贈魔!!。

京都国際マンガミュージアム三階の研究閲覧室に置いてある「アメコミ映画完全ガイドスーパーヴィラン編」という本と現在ミュージアム一階でジブリ映画「思い出のマーニ―」を紹介するコーナーがありますが、そこに飾られている「思い出のマーニ―」と監督が同じジブリ映画「借りぐらしのアリエッティ」のフィルムコミック1~4巻は僕が寄贈したものです。あとからanyとかいうクソ野郎が僕のコメントにいちゃもんをつけてくるかもしれませんが、無視してください。
非公開コメント