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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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やっぱり現地に復元してほしかった!? 大極殿は平安宮のシンボル - いにしえの平安京の痕跡を探訪する(3) -





大極殿跡


 朝堂院の構成

 平安京の大内裏(平安宮)の痕跡を訪ねる3回目は、いよいよ大極殿(だいごくでん)です。
 大極殿は、朝堂院のメインの建築です。大内裏の中にある朝堂院は、前回紹介した豊楽院と並立し、その東側に設けられています。
 朝堂院は国家の政務が執られる場所で、現在でいえば東京・霞が関の官庁街をグッと凝縮したようなところです。エリアは、南北およそ460m、東西およそ190mで、「八省院」とも呼ばれたのは中務省、宮内省、治部省、大蔵省などの役所が入っていたからです。

 南端には、入口の門・応天門が聳えていました。そこを入ると小区画があり、朝集殿という建物が左右に1棟ずつ建っていました。名の通り、お役人たちの集合場所です。

 朝堂院イラスト
 朝堂院(右のエリア)と豊楽院 (平安京創生館パネルより)

 その北側の区画には、会昌門を通って入ります。そこがメインエリアで、12の建物(朝堂)が建っていました。右サイド(東側)には昌福堂など4棟、左サイド(西側)には延休堂など4棟、その間(中間の南方)には暉章堂など4棟がありました。
 個々の建物は、桁行(横幅)が7間または15間で、およそ30m~60mという長大な建築だったようです。

 その北には、龍尾壇という一段高いところがあり、そこに大極殿が建っていました。桁行11間、梁間4間(九間四面)の建物で、南側は扉がない吹き放しです。両翼に、複廊で結ばれた蒼龍楼と白虎楼を備えていました。
 大極殿内部の中央には、天皇の座である高御座(たかみくら)が置かれました。天皇の即位礼や外国使節との謁見など国家的な儀式が行われる場だったからです。

 高御座の例
  高御座の例(後期難波宮 大阪歴史博物館) 


 ひっそりとたたずむ大極殿の記念碑

 朝堂院は、現在の千本丸太町あたりから南側に広がっており、その北端に大極殿がありました。
 大極殿のセンターは、およそ千本丸太町の交差点の北西あたりにあったと考えられています。そして、その北のバス停のところに、こんな石柱が立っています。

  大極殿跡
  「大極殿遺址道」の石柱

 ここを西へ入るか、または、

 大極殿跡
  内野児童公園

 南から公園を通って入っていきます。
 すると、

 大極殿跡

 立派な壇の上に石碑が建てられています。

  大極殿跡 大極殿跡の記念碑

 「大極殿遺阯」。

  大極殿跡 大極殿跡

 裏面には、「明治弐拾八[28]年十月廿二[22]日 京都市参事会書」とあります。
 本当は、この記念碑は明治29年(1896)6月に竣工したのですが、碑面には前年(1895年)10月22日の日付が刻まれています。実は、10月22日とは平安京の“誕生日”なのです。つまり、平安遷都が行われたのが延暦13年(794)10月辛酉(22日)のことだったのです。

 碑が建てられた経緯は後でふれるとして、この場所について説明しておきます。
 この碑がある地点は、大極殿そのものがあった場所とは少し異なり、およそ大極殿の北回廊の位置に当たります。それも回廊のセンター(昭慶門があった)よりも少し西にずれているのです。

 ちなみに、『新撰京都名勝誌』(大正4年=1915)には、次のように紹介されています。

 大極殿旧址 葛野郡朱雀野村字聚楽廻

 平安城大内裏の正朝なる 大極殿旧址 は、上京区千本通下立売下る小山町の西側と、葛野郡朱雀野村大字聚楽廻小字瓢箪とに跨がり、千本より西に入り、新屋敷の旧地より北に当れる一帯の地にして、今なほ地中より残礎碧瓦など掘出すことあり。
 明治28年平安奠都[てんと]千百年祭を挙行せし際、大極殿は桓武天皇の最も大御心を尽して造営し給ひし処なれば、其の旧址に於て之[これ]を模造し天皇の神宮を創設せんとの議もありしが、故ありて岡崎町に造営し、此の旧址は別に保存する事となり、古図旧記によりて敷地を考査し、土地を購[あがな]ひ、豊碑を建て、保存の因由と、大内裏及び平安京の四至[しいじ]等を記し、以て世に表することとなれり。
 此の地に至り高きに拠りて四望すれば、京洛の山河相映発して、延暦の勇図宛然目前に在るを覚ゆ。(303-304ページ)


 この説明文は、非常にうまく建碑の経緯を紹介しています。少し詳しく読み解いていきましょう。
 
 
 大極殿を復元せよ!

 明治27年という年は、西暦でいうと1894年です。つまり、平安遷都1100年の記念すべき年に当たります。
 京都では、それにあわせて紀念祭を実施するとともに、内国勧業博覧会の第4回を誘致しました。内国勧業博は3回までは東京で開催されていましたが、第4回は京都と大阪が綱引きし、京都で開催されることになったのです(第5回は明治36年に大阪で開催されました)。

 その経過ですが、まず明治25年(1892)頃から、京都の実業家たちが「桓武天皇御開都千百年紀念祭」の開催を企画し、内国勧業博の誘致とセットで動き始めます。
 しかし、内国勧業博の開催が、明治26年(1893)に米国シカゴで博覧会が開催される関係上、1年繰り延べになって明治28年(1895)となりました。そのため、千百年祭も明治28年に行うことになったのです。1895年が1100年とちょっとずれるなぁ、という理由です。ただ、表向きには<桓武天皇が初めて大極殿に昇って正月の拝賀をしたのが延暦15年(796)であり、そこから1100年である>という大義名分を作ったのです。

 実施にあたっては、紀念祭協賛会が結成され、明治26年になると、計画も具体性を帯びてきました。
 協賛会のメンバーで、大阪府知事や農商務次官などを歴任した西村捨三は、(1)大極殿の模型を造る、(2)大内裏の絵図を作る、(3)京都全体の地図を作る、(4)大極殿の背後に「平安社」という社殿を造る、という4つのプランをあげたといいます。
 このうち、1番目のものが大極殿の復元であり、4番目が平安神宮の創建ということになります。


 どこに造るか?

 大極殿をどこに復元するか? たいへん大きな問題です。

 歴史学者で『平安通志』編纂者として知られる湯本文彦は、かつて大極殿があった場所に復元すべしと主張しました。湯本らは、すでに平安京の実測調査を行い、その成果を「平安京旧址実測全図」としてまとめていたので、千本丸太町付近に大極殿があったことを把握していたのです。
 しかし、その後に協賛会が検討した結果、復元する大極殿は博覧会のシンボルとして、博覧会場(岡崎)に建造することに決まったのです。具体的には、現在の京都市動物園の場所が候補地となりましたが、後に現在地(平安神宮)に変っています。

 その後、協賛会副会長の佐野常民は、大極殿の背後に社殿を造って桓武天皇を祀り、大極殿を拝殿とする案を考えました。これが支持を集め、現在の平安神宮につながるプランが出来上がったのでした。

 平安神宮の鎮座式は、明治28年(1895)3月15日に執り行われました。また、紀念祭は秋に延ばされ、同年10月22日から24日にかけて実施、翌25日に最初の時代行列(時代祭)が行われたのです。

 平安神宮
   復元された応天門(平安神宮応天門)

 平安神宮 応天門の額

 平安神宮
   復元された大極殿(平安神宮大極殿=外拝殿) 壇が龍尾壇

 平安神宮
   同 上 前面は吹き放しになっている
 
 平安神宮の建築(あるいは庭園)については、改めて述べないといけませんが、朝堂院すべてを復元したのではなく、応天門と大極殿を復元し、その間に存在した朝堂は省略したわけです。
 設計に携わったのは、宮内省内匠寮の木子清敬と、帝国大学の大学院生だった伊東忠太らです。とりわけ伊東の実作としては、共作ですがこれが最初のものになります。
 大極殿、応天門、蒼龍楼、白虎楼、東西歩廊は、2010年に重要文化財に指定され、その附けたりとして龍尾壇の石段および石積と彩色図面が含まれています。
 以前、京都国立近代美術館の展覧会で、この彩色図面を見たことがあります。伊東が引いた図面と記憶するのですが、絵画作品とさえいえる大変美しいものでした。

 大極殿は、やはり千本丸太町に復元してほしかったし、8分の5サイズではなく原寸復元してほしかったけれど、こうして実見できるのは幸せです。

 そんなわけで、大極殿は平安神宮として実現したので、本当にあった場所には記念碑が建てられることになったのです。

 大極殿跡

 これだけ立派な記念碑ですが、ここに復元することを唱えた湯本文彦は満足したのかどうか。それだけが、なんだか気になります。




 平安宮大極殿跡

 所在 京都市中京区聚楽廻西町
 見学 自由
 交通 市バス「千本丸太町」下車、すぐ




 【参考文献】
 『平安京提要』角川書店、1994年
 角田文衛編著『平安の都』朝日選書、1994年
 『平安神宮百年史』平安神宮、1997年
 『新撰京都名勝誌』京都市、1915年


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