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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS朝日「京都ぶらり歴史探訪」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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豊楽殿は「飛騨の匠」が造ったと伝える大内裏の饗宴場 - いにしえの平安京の痕跡を探訪する(2) -





豊楽殿跡


 寂しかった千本丸太町界隈

 前回に続き、平安京の大内裏(平安宮)の現地探訪です。
 起点は、やはり千本丸太町の交差点。

 千本丸太町の案内板
  千本丸太町

 今回は、丸太町通を西へ進んでみましょう。
 かつて丸太町通は、千本通までしか続いておらず、それより西側は田畑が広がっていました。京都帝大教授で東洋史学の泰斗・羽田亨(はねだとおる)博士は、昭和初期の付近の雰囲気について、次のように述べられています(「聚楽廻り」1928年)。

 大概の名簿には自分の宿所は、丸太町千本西入新屋敷と記されて居る。新屋敷の名は今から二十年ばかり前までは誰でも知つてゐた者なのだが、惜いことには今は一丁東の交番で聞いても知らないさうだ。
(中略)
 我輩の中学に通つた子供の頃は今の丸太町の千本以西には竹藪が生ひ茂り、冬の夜などきつねの鳴き廻るのは毎夜のことであつた。
(中略)
 裏の離れの障子をあけると、秋は眼界紅葉に燃ゆる嵐山までおよぶ広漠たるものであつたが、二十数年にして御覧の通りの繁昌だ。尤[もっと]もその昔平安遷都の際には、こゝらあたりは皇城の域内として大宮人のはしやいだ所らしく、今もこの町の俗称の一つとして残る豊楽[ぶらく]町の名は、そのかみ豊楽殿の所在たりし記念であるが、復古の機運のめぐり合せか、隣には宿屋の看板を掲げて歌三味線で夜昼囃し立てる家も出来て、婉転たる嬌音は獰猛なる蛮声にからみ、しがない読書子を悩ますこと夥しい。(29-31ページ)


 羽田博士の自宅は、いわゆる聚楽廻(じゅらくまわり)に立地していましたが、明治時代には狐が出るような随分寂しい場所だったという思い出です。それが昭和ともなると、少しずつ家が建ってきて、隣家の歌舞音曲が博士の読書の邪魔をするまでに発展したのです。

 このあたりは、長らく「内野」と呼ばれていました。いわゆる大内=内裏の跡地ということで、そんな呼称がある田畑や野原でした。
 博士の邸付近は、引用文にあるように豊楽院(ぶらくいん)があったところなのです。そして、豊楽院の東側には朝堂院が並んでいました。


 豊楽院跡の発掘

 昭和3年(1928)、丸太町通の拡張に伴って、豊楽院の基壇の一部が発見されました。その後、昭和62年(1987)の発掘で豊楽殿の遺構が確認され、現地に保存されています(国史跡)。

 豊楽殿跡
  豊楽殿跡(左奥が南)

 豊楽院は、大内裏の中にあり、内裏の南方に朝堂院と並んでいました。天皇即位の大嘗会をはじめ、さまざまな饗宴が執り行われる場でした。「豊楽」は「とよのあかり」、すなわち宴会を意味する言葉です。正月の節会や秋の新嘗祭、外国使節を迎える宴会などが行われ、特に元日の宴は盛大だったといいます。
 四方を築地塀で囲まれていて、南北の長さ約400m、東西の幅約170mの広大なエリアで、南に豊楽門を開いています。敷地の北端には、メインホールの豊楽殿が聳え立ち、東西には回廊で結ばれた諸堂が建ち並びます。

 豊楽殿跡案内板
  豊楽殿(現地の案内板より)

 いわゆる七間四面(桁行[横方向]9間、梁間[縦方向]4間)という大きな建物で、南を向いて建っていました。屋根は寄棟造だったのでしょう。内部は、中央に高御座(たかみくら。天皇の座)が置かれ、西方に皇后の座、東方に皇太子の座が設けられました。
 発掘された部分は、豊楽殿のごく一部です。上の写真の発掘地は、豊楽殿の北西端あたりに過ぎません。豊楽殿に加え、後方の建物と連結する廊も発掘されています。
 廊でつながる後ろの建物を清暑堂と呼び、大嘗会などはここで行われました。清暑堂は、昭和51年(1976)の発掘時に一部が出ています。

 清暑堂跡
  清暑堂跡(手前が南)

 写真は、清暑堂の西半分くらいを撮っています。背後のマンションの向う辺りに豊楽院の北門・不老門があったようです。ただ、そこはもう丸太町通の上なのですが……


 飛騨の匠の作?

 豊楽殿は豪華な建築だったようで、鉛製の鴟尾(しび)も載せられていたようです。
 11世紀前半、藤原道長が法成寺を建立する際、その伽藍には緑釉の瓦が使われました。ところが、釉薬を作る鉛が不足したのか、道長は豊楽殿の鴟尾を降ろして溶かそうとしたというのです!(「小右記」)。ちょっとけしからん話ですが、それだけ大きく目立つ鴟尾だったのでしょう。

 その豊楽殿は、飛騨の匠(たくみ)が造ったという言い伝えがあったようです。
 飛騨の匠とは、どのような人たちだったのでしょうか。藤田勝也氏によると、「8世紀ごろから10世紀にかけて、庸・調免除の代償に1年交代で徴発され、木工寮などの建設官司に配属されて、都城造営に従事した匠丁たちであった。(中略)彼らの出身地・飛騨国は古来良材に恵まれ、「彼に此に物はおもはず飛騨人の打つ墨縄のただ一道に」と『万葉集』にも詠われるように、ある程度の木工技術を有していたのだろう」ということです。
 こういった造営の仕事を重ねるうち、徐々に伝説化していき、飛騨の匠といえば木工の名匠をイメージするようになったのでしょう

 豊楽殿を飛騨の匠が造ったという伝説は、院政期の「今昔物語集」に登場します。巻第24・第5にみえる「百済川成と飛騨工と挑むこと」という逸話です。

 百済(くだら)の川成(かわなり)という高名な絵師が、「飛騨の工(たくみ)」と意地の張り合いをするという話です(以下、途中からの大意)。

 その頃、飛騨の工という工匠がいた。平安京遷都の時の匠である。比類なき名匠で、豊楽院はこの匠が建てたものなので、すばらしいのだろう。
 ある時、飛騨の工が、絵師の百済の川成にこう言った。

 「我が家に、一間四面の堂を建てました。見に来てもらって、壁に絵など描いて下さい」

 川成は、いつも競いながら仲良くやっているので誘ってくれたのだろう、と思って、見に行った。
 行ってみると、小さなお堂なのだが、四面にみな扉が付いている。

 「お堂に入って、中を見て下さい」

 と言われるままに、川成は縁に上がって、南の扉より入ろうとすると、その戸はパタっと閉まってしまう。驚いて、西の扉から入ろうとすると、また閉まって、逆に南の扉が開いた。北から入ろうと思うと、その戸は閉まって、西の扉が開いた。東から入ろうと思えば閉まってしまい、北の戸が開いた。  
 このように何度も挑戦するが、ついに入ることが出来なかった。がっくり来て、縁から下りると、飛騨の工は腹を抱えて大笑いした。川成は、悔しがって帰って行った。

 しばらくたって、川成が飛騨の工へ使いを出し、

 「我が家にいらっしゃって下さい。見せたいものがあるので」

 と言う。
 飛騨の工は、きっと謀り事があるんだな、と思って断ったが、しつこく誘われるので行くことにした。

 飛騨の工が川成の邸に行くと、召使いが「こちらへお入り下さい」と言う。
 廊にある戸を開けると、なんと黒ずんで膨れて腐っている人間が倒れており、悪臭を放っていた。
 あまりのことに、飛騨の工は大声を出して飛び出した。
 川成は部屋の中にいて、大笑いした。

 飛騨の工は、あぁ恐ろしい、と思って庭に立ち尽くしていると、川成が顔を出して、「やぁ、まあ入りなさいよ」と誘う。恐る恐る近寄ってみると、衝立てに死人の絵が描いてあったのだ。
 お堂のことで騙された仕返しをしたのだった。
 
 当時は、みんなこの話で持ち切りで、二人の名人ぶりを誉め讃えたということだ。


 なんともすごいエピソードです。
 二人とも、それだけ高い技術を持っていたと噂されていたわけです。

 そんな豊楽院ですが、康平6年(1063)の火災で焼けてしまい、その後は再建されませんでした。

 なお、豊楽殿跡からの出土品674点は、2005年、重要文化財に指定されています。緑釉の鴟尾、鬼瓦、軒瓦など、瓦類が中心です。史跡とあわせて、貴重な考古資料といえるでしょう。

 興味深い大内裏の話ですが、もう1回続けてみたいと思います。

 (この項、つづく)




 平安宮豊楽院跡(国史跡)

 所在 京都市中京区聚楽廻西町
 見学 自由
 交通 市バス「千本丸太町」下車、徒歩約3分




【参考文献】
 『平安京提要』角川書店、1994年
 角田文衛編著『平安の都』朝日選書、1994年
 永田信一「平安京跡発掘史(1)」、『研究紀要』第8号、京都市埋蔵文化財研究所、2002年所収
 リーフレット京都 №200「平安宮豊楽殿跡出土品」京都市埋蔵文化財研究所ほか、2005年
 羽田亨「聚楽廻り」、『京ところどころ』金尾文淵堂、1928年所収
 石村貞吉『有職故実』講談社学術文庫、1987年(原著1956年)
 藤田勝也「名工・飛騨のたくみ」、『週刊朝日百科 日本の歴史56』朝日新聞社、1987年所収
 『日本古典文学全集 今昔物語集3』小学館、1974年


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