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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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禅宗建築の花頭窓は、“サラセン建築”に由来するという天沼俊一博士の説

建築




西本願寺経蔵


 中村博士の花頭窓考察

 前回は、銀閣寺をイメージするポイントは「花頭窓(かとうまど)」にある、という話でした。
 今回は、それを受けて、いま少し花頭窓について考えてみます。

 建仁寺浴室
  花頭窓の例(建仁寺浴室)

 花頭窓は、鎌倉時代に禅宗様が入ってきて初めて用いられるようになった窓です。それまで窓といえば、もっぱら細い格子の入った連子(れんじ)窓でした。

 中村達太郎博士の『日本建築辞彙』は、花頭窓について、こんなふうに書いています(大意)。

 かとー(火灯)
 「架灯」とも「瓦灯」ともいう。上方が曲線形であるものをいう(図1)。
 上部が直線になって原意を失ったものもある(図2)。これも上方が弓形に近いために火灯の一種と認めて「隅切洞[ほら]火灯」と称する。
 その他、「蕨[わらび]火灯」「富士火灯」「琴締[ことじ]火灯」などがある。

 「かとー」の語源については諸説がある。「圭窬」または「圭竇」の転化という説があり、これは“壁に穿った穴”“くぐり”の意味なので、あながち牽強付会の説とも言えない。
 「かとーぐち」には灯籠を置くので「架灯口」と言い、そこから「かとー」という語が出た、という説には賛成できない。
 私が考えるに、きっと形から発生した言葉なのだと思う。初めは寺院などに用いた「圭」状の窓をこう言ったのだが、後に弓形または直線形のものも、茶人が「かとー」と名付け始めたのだろう。
 (中略)
 私は、どの説にも偏らない「火」の字を仮に用いて「火灯口」と書いている。(78-79ページ)


 『日本建築辞彙』より「火灯」
  図1

 『日本建築辞彙』より「火灯」
  図2

 中村博士、難しすぎる!

 一番分からないのは「圭」ですが、これは復刻版の頭註によると、「圭は古代中国で天子が諸侯に封侯の印として与えた玉。上部がとがり、下方が四角の形状をしている」ということ。つまり、下の方は<四角柱>で、その上に<四角錐>が乗っている形です。

 なるほど、それを横から見ると、火灯窓みたいな形ですよね。


 天沼博士の花頭窓考察

 中村達太郎博士の『日本建築辞彙』は、ふだんはとても役立つのですが、花頭窓については少し迷走気味(失礼)ですので、やはり天沼俊一博士の著書を繙いてみましょう。

 戦時中に出された『日本建築』には、禅宗様(唐様)の特徴のひとつとして、次のように書かれています。

 [唐様の]窓(出入口も)は「花頭窓」と呼ぶ形式のもので、上は楣[まぐさ]でなく多葉栱[きょう]の如くであり、サラセン建築に於けるものと同じ様な形をしてゐる。(110ページ)

 こういって、鎌倉の円覚寺舎利殿と、丹波の普済寺仏殿の写真をあげるのです。

 『日本建築』より円覚寺舎利殿
  円覚寺舎利殿(『日本建築』より)

 開いている部分の上部のカーブを覚えておいてください。

 普済寺(南丹市)の方は、私が撮影した写真を掲げておきましょう。

 普済寺
  普済寺仏殿(重文、室町時代)

 普済寺
  普済寺仏殿の花頭窓と弓欄間

 この窓は、窓枠の縦のラインが比較的垂直に降りていますね。これは古い証しなのです。ちなみに、こちらは延文2年(1357)の建築です。

 江戸時代になると、例えばこのようになります。

 仁和寺経蔵
  仁和寺経蔵の花頭窓

 仁和寺の経蔵です。応仁の乱で焼け、寛永から正保年間(1640年代)の再建と考えられています。普済寺より300年近く新しいわけで、裾広がりのラインになっているのが分かりますね。

 仁和寺経蔵
  仁和寺経蔵(重文、江戸時代)

 花頭窓は大陸から禅宗とともに輸入されたスタイルですが、天沼博士は次のように想像されています。

 (前略)唐様建築には必ずといってもいい位に、花頭窓であった。(中略)私は「花頭」が最も適してゐると考へてゐるので、いつもこの字を書いている。
 此種の窓はサラセン建築が元で、支那に入り木材でつくる様になってから、下方に下がってゐる茨の尖り方が鈍くなり、其儘[まま]日本へ輸入され、遂に桃山江戸時代に入りて其用途は甚だしく広くなり、全く其拠て来たところを忘れて、一種不思議な形をとるに至ったものと考へてゐる。
 (中略)
 回教は日本へは入ってこなかったが(現代のことをいってゐるのではない)、其建築の細部としては「花頭窓」、作法としては臨済宗の僧侶が座具を敷き、其上に上って跪いて拝礼する方法のみが移入されたのではないかと思ふ。(『日本建築細部変遷小図録』85ページ)


 回教、つまりイスラム教の名が出ていますが、「サラセン建築」とは今でいうイスラム建築のことを指します。それが中国に伝来して、変形していったというのです。
 この博士の説が正鵠を射ているのかどうか、私には分からないのですが、そのサラセン建築の“花頭窓”とは、おそらくこのようなものなのでしょう。

 東本願寺伝道院

 「下方に下がってゐる茨の尖り方」というのが、よくうかがえます。
 思い入れを強くすれば、先ほどの円覚寺舎利殿のカーブに似ていなくもないでしょう。

 この建物は、京都にあるのです。


 伊東忠太の“サラセン花頭窓”

 東本願寺伝道院
  本願寺伝道院

 西本願寺の伝道院(下京区)です。もとは真宗信徒生命保険会社の社屋として、明治45年(1912)に建築されたものです。設計者は、伊東忠太。アジア建築に造詣が深く、築地本願寺の設計で知られる人。京都での代表作は、この伝道院と、祇園閣、それに平安神宮です。
 伊東忠太らしいエキゾチックな建築要素の引用で魅せる伝道院。この塔屋の窓は、天沼俊一の言うサラセン風の“花頭窓”に違いありません。

 そうこう思ううちに、これもそうかな? と思い出しました。

 東華菜館

 どうでしょう。考えすぎなのか?
 
 この建物の全景は、こちらです。

 東華菜館
  東華菜館

 四条大橋西詰の東華菜館です。大正15年(1926)、ヴォーリズによる建築。
 考えてみると、この建物のスタイルはスパニッシュです。スペインにはイスラム文化が濃厚に入っていたわけですから、スパニッシュスタイルの建築がイスラム風であるのも当然です。すると、“サラセン花頭窓”みたいなものがあっても変ではないわけですね。

 ということで、かなり脱線した感じですが、花頭窓について少し自由に考えてみました。


  東本願寺伝道院




 【参考文献】
 中村達太郎『日本建築辞彙』丸善、1906(復刻版は中央公論美術出版、2011)
 天沼俊一『日本建築』弘文堂書房、1942
 天沼俊一『日本建築細部変遷小図録』星野書店、1944


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