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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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京都の西国三十三所(2) - 六角堂 その1 -





六角堂


 洛中の町堂

 京都の西国三十三所札所のうち、市街地の真ん中に建っているものといえば、六角堂と革堂です。
 この2寺は三十三所という観点をはずしてみても、京都の町衆に信仰され、その結節点となってきた重要な寺院です。革堂(こうどう、行願寺)は、現在は寺町二条にありますが、もとは一条小川にありました。六角堂の位置は創建より移動していないとされ、烏丸六角東入にあります。2つのお寺は、革堂が北、六角堂が南という関係です。これを京都の町(中世)と関連づけてみると、革堂は「上京」(かみぎょう)という地域の人々の拠り所となる寺(町堂)であり、六角堂は「下京」(しもぎょう)の町堂でした。いまは2寺ともこぢんまりとしたお寺ですが、京都の歴史の中では大変重要な存在だったのです。

 六角堂は、紫雲山頂法寺といいますが、古くから六角堂と言い慣わされてきました。確認できる資料として、藤原道長の「御堂関白記」寛仁元年(1071)3月11日条に「六角小路」という通り名で「六角」の語が登場し、同時期の「小右記」にも「六角堂」という名が見られます。これらから、遅くとも11世紀後半には六角堂という呼び名があり、その名のもとになる六角形の建物があったのでしょう。


 参拝空間の礼堂

 六角堂は、幕末、元治の大火(1864年)で焼けたあと、明治10年(1877)に建て直されたものです。お堂は、やや複雑な形になっています。門をくぐって正面に見えている部分は礼堂(らいどう)で、本堂とは別の棟です。礼堂は、本堂(正堂)の前に設けられた参拝のための空間です。六角堂の場合、桁行三間、梁間二間、入母屋造になっていて、本堂にぴったりと接合されています。側面から見ると、屋根が食い込んでいるような感じになっています。

六角堂
 礼堂 床は石敷き(四半敷)で、三方は吹き放しの開放的空間

六角堂
 礼堂の側面(東側)

六角堂
 2つの堂の屋根が重なっている
 
 六角堂の参拝は礼堂で行われ、本堂に入ることができません。つまり、中に入れない六角の堂と、切り離された参拝空間から構成されていることに気付きます。おそらく、このことは六角堂の建物の成り立ちと関係しているとも思われます。
 六角堂は、歴史上、20数回も焼けたとされていて、お堂は常に建て替えられていました。しかし、現在見るような形になるのは江戸時代の17世紀のことと考えられています。


 六角ではなかった? 六角堂

 では、江戸時代までの六角堂はどのような形だったのでしょうか?

 平安時代末の「寺門高僧記」にある「三十三所巡礼記」(1161年)には、六角堂の建物は「九間南向」とあって、現在のように礼堂があるふうには書かれていないそうです。
 また、京都市街を描いた「洛中洛外図屏風」を見ると、六角堂はごく普通の寄棟造の建物に描かれています。たとえば、上杉家本(1574年)では、寄棟造瓦葺で、桁行は五間のようにも見えます(右隻第四扇)。町田家本(1525-31年頃)では、寄棟造瓦葺、桁行三間、梁間三間のお堂です(右隻第三扇)。時代がくだる舟木家本(1615年頃)には、桁行三間、梁間が二間ほどの寄棟造瓦葺に描かれており、堂内に僧侶がいます(左隻第三扇)。いずれにせよ、いまの六角形の建物とは全く違います。

 では、六角形のお堂はどこに行ったのでしょうか。

 ひとつの考え方としては、かつては六角堂だったが、度重なる焼亡により、ある時点から普通の建物に建て替えられていた、という考え方。
 もうひとつは、六角のお堂は<覆い屋>の中にあったとする考え方です。
 同じ西国三十三所の粉河寺(和歌山県)に、六角の厨子(ずし、仏さまを収める)が建物内にあったケースがあるそうです。つまり、大きな建物の中に小さな建物を入れる形です。中尊寺の金色堂などでお馴染みの形ですね。そうなると「六角堂」とはいっても、さほど大きくない厨子のようなものだったと考えられます。
 ちょっと意外ですが、古記録や「洛中洛外図」などの絵画資料を検討すると、そういう考え方もできるということです。どちらかというと、こちらの説の方が愉しそうですね。

 
六角堂
 明治10年にできた現在の六角堂。隣接するビルから見下ろせる

 「都名所図会」(1780年)には、現在と同じように、六角形の本堂に礼堂がくっつく形が描かれていますから、覆い屋はなくなっています。おそらく江戸時代初め頃の火災で焼けて、改築する際に六角堂を大きくし、礼堂を付けたのでしょう。しかし、六角のお堂は仏さまを祀る“厨子”ですから参拝者は入れず、外の礼堂から参拝するスタイルになっているとも思われます。

 六角堂については、ほかにも重要な事柄がありますので、それは次回に紹介しましょう。



 頂法寺(六角堂)

 *所在:京都市中京区六角通東洞院西入る堂之前町
 *拝観:境内自由
 *交通:地下鉄烏丸御池駅より、徒歩約3分



 【参考文献】
 浅野清編『西国三十三所霊場寺院の総合的研究』中央公論美術出版、1990年
 小澤弘ほか『図説 上杉本洛中洛外図屏風を見る』河出書房新社、1994年
 『洛中洛外図大観』小学館、1987年
 「都名所図会」(『新修京都叢書』6、臨川書店、1967年)




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