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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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「黒谷」で知られる金戒光明寺では、幕末の山門が修復完了

洛東




金戒光明寺


 紫雲たなびく地「黒谷」

 京都の人に「金戒光明寺」と聞いても、おそらくほとんどの方が“?”という顔をするでしょう。しかし知らないわけではなく、「黒谷」と言い直してみると、多くの方は分かると思います。
 大正4年(1915)に刊行された『新撰京都名勝誌』、これは京都市が発行した書物ですが、そこにも「黒谷光明寺」として立項されているくらいです(ちなみに、昭和の改訂版『京都名勝誌』には「金戒光明寺」となっています)。

 金戒光明寺
  金戒光明寺 総門

 その『新撰京都名勝誌』から、解説文を引用してみましょう。

黒谷光明寺  若王子の西 岡崎町字黒谷
 紫雲山金戒光明寺  通称は黒谷、浄土宗鎮西派四箇本山の一なり。承安五年[1175]開祖円光大師、比叡山西塔黒谷の幽棲を出で、京都に入り浄土宗を弘通せんと欲し、此地を経過して紫雲光明の霊異を感じ、遂に一堂を結び光明寺と号す。其叡山黒谷より移りしを以て、世人称して新黒谷といひ、又地名に依りて白河禅房とも称せし(後略) (88ページ)


 承安5年(1175)、比叡山西塔の「黒谷」に住房を持っていた“円光大師”が、都のこの地を通った時に、紫雲たなびき光明を見たということで、ここに堂を構え、「新黒谷」と呼ばれるようになった--という言い伝えです。
 それで金戒「光明」寺だし、山号も「紫雲」山なんですね。

 ところで、この「円光大師」って誰でしょう?

 戦後育ちの私たちは、こういうのが苦手ですよね。
 それでも、弘法大師が空海ということは、誰でも知っていますよね。最澄が伝教大師ということも、知られている範囲なのでしょうか。
 私たちの歴史の知識は、知らず知らずのうちに教科書がスタンダードになっていたようで、円光大師といっても、ほとんど分らないわけです。でも、現地を訪ねてみると、石碑に「円光大師」云々と刻んであったりして、こういう言い方を知ることも大切です。

 ちょっと持って回りましたが、答えは「法然」でした。なんだ、という感じですね。
 ○○大師という言い方、つまり高僧に朝廷から贈られる諡号(しごう、おくりな)である大師号は、日本では、貞観8年(866)の伝教大師=最澄、慈覚大師=円仁が最初でした。

 法然さんが大師号「円光大師」を賜ったのはいつかというと、元禄10年(1697)のことで、東山天皇の時です。浄土宗では、450回忌の際に諡号をもらいたかったようなのですが、少しばかり時間を要したということですね。
 その後、500回忌(宝永8=1711、中御門天皇)に「東漸大師」の号を賜ります。その後、50年ごとに「慧成(えじょう)大師」「弘覚(こうかく)大師」「慈教(じきょう)大師」、そして明治天皇からは「明照(めいしょう)大師」、昭和天皇からは「和順(わじゅん)大師」と賜り、2011年の800回忌には「法爾(ほうに)大師」の号を賜りました。

 なんと8つも…… こんなのは法然さんだけなのですが、なぜなんでしょう。よく分からないみたいですね。

  明照大師号勅書

 これは『知恩院』(1930)という本に掲載されていた勅書なのですが、明治44年(1911)に明治天皇から明照大師の号が贈られた時のものです。「加諡 明照大師」という今回の諡号の右には、これまでの諡号が重ねられた「円光当然慧成弘覚慈教大師」と記されていて、なんとも驚かされます……

 閑話休題。
 今日は、先般修復が成った山門について見てみましょう。


 修復が完成した山門

 この門は、幕末に再建されていますので、「花洛名勝図会」(1864)に登場します。

 「花洛名勝図会」より金戒光明寺 
  「花洛名勝図会」巻4より

 石段の感じなども含めて、ほぼ今日と同じ様子です。樹木が少ないのが違うところでしょうか。

 今回の修理は、2011年5月、屋根瓦の落下に端を発し、緊急に修理が計画されました。
 同年7月から、足場や素屋根を設ける工事をはじめ、2012年から半解体修理が実施されました。

 金戒光明寺(山門修復中)
  修理中の山門 (2012年9月撮影)

2013年3月には本体の工事が終わり、10月25日に落慶式が執り行われたのです。

 金戒光明寺
  落慶した山門 (2013年11月撮影)

 この山門が完成したのは、幕末の万延元年(1860)のことです。棟札の年紀は嘉永7年(1854)ですので、その落慶法要を法然上人の650回忌(1861)の前年に執行したのでしょう。建物の細かいところは、幕末らしい雰囲気です。

 金戒光明寺
  組物は詰組

 金戒光明寺
  蟇股と虹梁

 竣工にあわせて楼上も拝観できました。昇り口の山廊もお色直し。

 金戒光明寺
  山廊(西側)

 楼上には、宝冠釈迦如来や十六羅漢がおられます。
 目立つのは、組物につけられた……

  『日本建築細部変遷小図録』より金戒光明寺
  楼門上層の木鼻 中央が牡丹(『日本建築細部変遷小図録』より)
 
 このような彫刻、特に牡丹の木鼻が印象的です。

 楼上の外には、後小松天皇の宸筆の額が懸けられています。

 金戒光明寺
  「浄土真宗最初門」

 こちらの額も、以前ふれた不動堂明王院(下京区)の例(記事はこちら ⇒ <弘法大師が刻んだという“霊石不動”は、井戸の底に沈められた…>)と同じ書風です。

 いわゆる「雑体書」というもの。

  金戒光明寺 雑体書による書(後小松天皇宸筆)

 「浄」の字に注目してみましょう。

 金戒光明寺

 赤い丸の部分が鳥のような形、黄色い丸の部分がヘビのような形です。この動物モチーフが書体の特徴です。
 もともとは中国の書体ですが、日本では弘法大師が書き、のちに寺社の額や看板の書体として使われるようになりました。

 この額も、今回の修理で綺麗になったようですね。

 金戒光明寺は、なにかと見どころの多いお寺ですが、今回はこの辺で。


  金戒光明寺

 


 金戒光明寺 山門 (京都府指定文化財)

 所在 京都市左京区黒谷
 拝観 境内自由  山門楼上は特別公開時のみ
 交通 市バス「岡崎道」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 「花洛名勝図会」1864年
 『新撰京都名勝誌』京都市、1915年
 『知恩院』知恩院、1930年
 天沼俊一『日本建築細部変遷小図録』星野書店、1944年


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