03 | 2017/04 | 05
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 - - - - - -
MENU

NEW ARRIVAL

PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

ふたつの「革新」が出会い、西陣織物館は生まれた





旧西陣織物館(京都市考古資料館)


 西陣織の近代化

 西陣織というと、京都を代表する伝統産業のひとつですが、昨今は着物離れで若い方には馴染みが薄くなっているのかも知れません。

 『京都名勝誌』より西陣織製造状況
 昭和初期の西陣織の様子(川島工場、『京都名勝誌』より)

 長い歴史を持つ西陣織は、江戸時代前期にはすでに隆盛を誇っていましたが、18世紀になると、享保や天明の大火が西陣を焼き尽くし、他の機業地の勃興もあいまって、その地位は低下します。
 近代になっても、東京遷都の影響で、京都の産業界は立て直しを迫られましたが、西陣織は近代化の道を歩みます。そのひとつが、明治5年(1872)のフランス・リヨンへの職工らの派遣で、その結果、画期的な紋織機であるジャカードや、飛び杼(ひ)を用いるバッタンなどがもたらされました。
 ジャカードは、19世紀初頭、リヨンの J.M.ジャカールによって考案された織機ですが、いわば長尺のパンチカードを用いてタテ糸の上げ下げを制御しながら複雑な模様を織り出せるマシンでした。人による操作をパンチカード(紋紙)で代用する“ハイテク”だったのです。この画期的な織機の導入で、西陣織は近代化の緒に就いたともいえるでしょう。
 明治末には、織機数は2万台にのぼり、全国の織物生産の約7%を占めたといいます。

  旧西陣織物館(京都市考古資料館)「西陣」碑(京都市考古資料館前)


 西陣織物館の開設

 時代は明治から大正となり、大正4年(1915)には大正天皇の即位礼が挙行されることになりました。大正や昭和の即位礼(いわゆる「御大典」)の舞台は、京都御所ですね。
 これにあわせて、各方面で大典記念事業が計画されます。ここ西陣でも、ひとつのプランが実行に移されました。それが、織物館の建設です。

 当時の状況について、『京都名勝誌』(1928)には、こう記されています。

 西陣機業の発達進歩を図り、西陣織の精華真髄を内外に知悉せしむべきの途として、織物館設置の必要なることは、識者間夙に唱導せる所なりしが、時恰[あたか]も御即位の大礼を行はせらるゝの時機に際会したるを以て、記念事業として之が建設を見たり。(427ページ)

 織物館の主な事業は、以下の通りです。

(一)流行の新製品を陳列して、西陣織物の紹介宣伝をなす。
(二)広く内外の参考品を蒐集して当業者並に一般の参考に供す。
(三)西陣機業家と需要者間に立ちて仲介斡旋の労をとる。(427-428ページ)


 まず新製品を展示して、西陣織をPRする。また、織物等の製品や資料などを国内外から集め、製造業者の参考に提供するとともに、一般にも公開する。そして、製造者と問屋、呉服店等の仲介をする-―といった感じでしょうか。
 織物館は、西陣織物同業組合によって開設されたので、PR施設であるとともに、組合員(製造者)の製造、販売の便宜をはかる意味もあったわけです。

 『京都名勝誌』より西陣織物館
  西陣織物館(『京都名勝誌』より)

 この写真は、昭和3年(1928)刊『京都名勝誌』に掲載されたものです。大正末から昭和初期頃の姿でしょうか。ちなみに、現在、建物前にある「西陣」碑は、昭和3年建立なので、ここにはまだ写っていません。

 では、この西陣織物館の建築的な意義を振り返ってみましょう。


 建築家・本野精吾による超尖端的建築!

 旧西陣織物館(京都市考古資料館)
  旧西陣織物館(現・京都市考古資料館)

 現在は京都市考古資料館になっている西陣織物館の建物。
 大正3年(1914)の竣工。構造は、鉄筋コンクリートに煉瓦壁を併用した造り。内部は、1階がすべて展示即売室、2階の東半分も展示即売室で、西側に資料室と、貴賓室を兼ねる会議室がありました。事務室などはないようで、純粋な展示および資料収蔵施設といえるでしょう。

 デザイン的にみると、古典的な要素をまったく廃して、大正初期の建築としては異例のスタイルになっています。

 旧西陣織物館(京都市考古資料館)  旧西陣織物館(京都市考古資料館)

 窓には装飾が全然ありません。ふつう、上部に三角形のペディメントなどを付けるものですが、まったく顧みないのです。

  旧西陣織物館(京都市考古資料館)

 正面の車寄せの角柱。柱頭部の装飾は行われているものの、幾何学的デザインになっています。古典的なオーダーの植物的意匠を変形したものでしょう。

  旧西陣織物館(京都市考古資料館)

 照明器具は、おしゃれですね。

 旧西陣織物館(京都市考古資料館)

 内部。1階から2階へ上がる階段です。細い手摺子にセンスが感じられます。

 竣工当時、“マッチ箱にピラミッドをのせたみたい”と揶揄されたほどの尖端的デザイン。古典主義的な約束事に従っていた西洋建築の常識からすれば論外の建物で、当時の建築界からみれば異端児の作品ということになりますね。

 その“異端児”、本野精吾という人です。
 明治15年(1882)、東京生まれ。父親は読売新聞の創業者のひとりで、本野もボンボンだったのかも知れませんね。東京帝大で建築を学んだのち、三菱合資会社地所部に入り、建築設計を始めます。明治42年(1909)、ドイツ留学。この経験が彼の作風を決定づけたようです。
 西陣織物館は、留学中に見た P.ベーレンスという建築家の影響があると指摘されています。

 ここで疑問に思うのは、なぜこのような前衛的な建築家に設計を依頼したのか、ということですね。
 施主(西陣織物同業組合)としては、もう少し「ふつう」の建物を造ってもらいたかったというのが、本音ではないでしょうか?

 本野精吾の履歴を見てみると、三菱合資会社で2、3の設計に携わっているものの、それは組織内での仕事であり、また留学前のことでした。
 西陣織物館は、本野が個人として設計した事実上の初作品だったのです。つまり、彼がどんな設計をしてくるか、誰にも分からなかったのでしょう。
 
 では、なぜ“初仕事”の本野に依頼したのか?
 それはおそらく、当時の彼の職によっているのでした。本野精吾は、ドイツ留学前年の明治41年(1908)、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)に教授として招かれています。彼を呼んだのは、京都建築界で活躍し、デザイン面にも強かった武田五一でした。

 京都高等工芸学校は、明治35年(1902)に創立され、専攻としては図案科、機織科、色染科が置かれていました。当初からデザイン教育に力を入れたわけですが、機織や色染といった学科は西陣織や友禅染を地場産業とする京都を意識したものでした。
 高等工芸学校と西陣織業界は強いつながりを持ちながら、西陣織の刷新に取り組んでいたのです。
 本野精吾に設計依頼が舞い込んだのも、彼が図案科の教授だったからでしょう。
 『京都工芸繊維大学百年史』によると、西陣織物同業組合の池田有蔵組合長が中沢岩太校長に建築設計を依頼。本野が推薦されたといいます。
 

 旧西陣織物館(京都市考古資料館)


 明治以降、技術やデザインへの革新を志向した西陣織と、欧州の建築潮流に影響を受けて革新的な建築を創造した本野精吾。
 ふたつの「革新」が必然的に融合したことで、西陣織物館という尖端的建築が登場したのでした。西陣の人たちは、苦笑いしながらも、案外この建物を自慢に思ったのかも知れません。




 旧 西陣織物館(京都市考古資料館) (京都市登録有形文化財)

 所在 京都市上京区今出川通大宮東入ル元伊佐町
 見学 館内自由(無料)
 交通 市バス「堀川今出川」下車、すぐ



 【参考文献】
 『新撰京都名勝誌』1915年、京都市
 『京都名勝誌』1928年、京都市
 『建築家 本野精吾』京都工芸繊維大学技術工芸資料館、2010年
 『京都工芸繊維大学百年史』京都工芸繊維大学百周年事業委員会、2001年


スポンサーサイト

コメント

非公開コメント