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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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江戸時代の京に響く中国語の声 - 「世間学者気質」 -

京都本




世間学者気質


 衝撃的! 京都の町人が中国語を話す物語

 今でこそ中国語を勉強する人は多くなりましたが、一昔前までは外国語といえば英語や欧州諸語が中心でした。

 ところが、江戸中期の京都で、中国語をしゃべる町人がいたと聞いたら、とても驚きです。
 これから紹介するのは、あくまで物語(浮世草子)の世界で、面白おかしく書かれているのですが、あながち完全なデタラメでもないように思えます。
 どんな話なのか、さっそく紹介してみましょう。

 タイトルは「世間学者気質(かたぎ)」。明和5年(1768)に出た浮世草子で、“気質もの”と呼ばれる一群に属する作品です。作者は無跡散人ですが、誰のことなのか、よく分かりません。
 以下、その中の巻一のあらすじです。


 中国趣味に取りつかれた若旦那

 京の町に、布袋屋福右衛門という大金持ちがいました。 
 69歳になっても隠居せず、いわゆる“始末”な人物で、お金を節約して蓄財を重ねています。
 息子の徳太郎といえば、たいそう大切に育てられ、生まれてこの方、そろばんを持ったこともなく、堅いものといえば箸と筆、重いものといったら硯くらいしか持ったことがありません。
 生まれつき器用なたちで飲み込みが早く、7歳で早くも詩を作るなど才能を発揮しました。そんなわけで長じても漢詩を詠むことや文を作ることを好みました。

 成人にしたがひて、学問しだいに上り、詩賦作文を好む心より、唐好になりて、居間は敷瓦に丸柱、朱ぬりの聯[れん]に、何やら蚯蚓[みみず]ののたくつたやうな文字を彫付、机のまはりは、唐のほし見せ程ならべ立、ふだんは晋衣[しんえ]に淵明巾[きん]、髭[ひげ]のこいこそ日本人は悪けれど、是のみを難儀がり、膳のまはりは羊の浜焼、豕[いのこ]のこくしやう、牛のかまぼこはいふに及ばず、熊の掌のてんぷら、豚のからしあへ、はじかみを捨てずして喰う。 (後略)

 成人すると、詩賦作文を好むようになり、「唐(から)好き」、つまり中国大好き! になった徳太郎。
 居間には、畳ならず敷瓦(しきがわら)を敷きつめ、「聯(れん)」にミミズがのたくったような字を彫り付けています。
 聯というのは、このようなもの。

  聯(れん) 萬福寺の聯

 宇治・萬福寺の写真ですが、禅堂の柱に取り付けた縦長の板で、深遠な禅語が記されています。これが聯で、当時イメージされる中国風文物のひとつでした。

 衣服は「晋衣(しんえ)」、つまり中国風の服。「淵明巾(えんめいきん)」は、中国の4~5世紀、東晋の詩人・陶淵明(とうえんめい、陶潜)にちなむ頭巾(ずきん)の一種です。陶淵明といえば「帰去来の辞」で有名な人ですね。

 といった、頭巾と服を身に着けていたわけで、完全な中国趣味の若旦那。
 食べるものも、およそ江戸時代らしからぬ、羊とか豚とか、牛のかまぼこ(?)、熊の掌!などなど。日本人離れしています。

 引用文のあとにも、「ぶどうの美酒」を傾けながら、「唐人仲間」と詩会や文章会を開く毎日。
 そうこうするうちに、中国語もしゃべれるようになってくるのでした。


 江戸時代の中国語「唐話」

 急に唐へ行て見たい気になり、俄(にわか)に唐音、簫(しょう)しちりきのけいこ、日がな一日、「紅満枝緑満枝」と、うたひくらし、日がくれると、“乙乙下一乞”タラリヒヤラと吹立、(後略)

 このように、中国に行ってみたくなって、にわかに「唐音(とうおん/とういん)」、つまり中国語の勉強を始め、楽器の“しょう” “しちりき”を稽古してみたりします。
 当時、中国語の話し言葉を「唐話」と呼んでいました。

 引用の「紅満枝緑満枝」には、「こうまんつう ろうまんつう」という唐音の振り仮名がふってあります。
 徳太郎と仲間の会話もこんな具合です(【 】内は振り仮名)。

 (主)有労来也【いうろうらいや】御大義によう御出なされた
 (客)久違得緊那大家万福麼【きういいてきんなたいきやあわんふうも】久しう御ぶさた仕た どなたもおかわりも御ざらぬか
 (主)請坐【ちんぞー】々々 先下に御ざれ 茶拿来進他菓子也拿来【さならいちんとうこうつうゑならい】茶もて来て あの人にしんぜい 菓子も又もつてこい


 いやはや、まったく理解不能ですね。
 でも、本人たちは真剣なのか、徳太郎も来年の春には長崎から唐へ渡ろうという夢を抱き始めたのです。
 
 ところが、突然、父親が亡くなります。
 奉公人は、ここぞとばかり勝手に散財し始め、財産は一気に尽きました。
 あわれ、徳太郎は、ばあ様と一緒に五条あたりで借家住まいです。

 でも、そこでいう泣き言も、「不好了」【ぶうはうりやう】きのどくなこと という唐話です。つられてばあ様も、わしほど 「造化底」【ぞうほわでい】ふしあはせ な者はないと、嘆きます。
 状況を打開しようと、「大明伝来の詩仙糖といふ薬菓子」を販売しますが、うまくいかず…… という物語です。


 萬福寺
   萬福寺(宇治市)


 意外な唐話ブーム

 では、なぜ京の商家の若旦那が、ペラペラと中国語をしゃべっているのか?
 これには時代背景があります。

 以前書いたように、17世紀半ばには、隠元禅師の渡来と萬福寺開創に伴う中国文化ブームがありました。
 詳しくは、こちら ⇒ <萬福寺の聯と額は、京都人の憧れの的>

 18世紀に入ると、儒者の荻生徂徠は古文辞学を唱え、漢文をそのまま中国語として読もうと考えます。
 その際、講師として招かれたのが、岡島冠山(1674-1728)でした。
 冠山は、長崎で唐通事(中国語通訳)をしていたこともあって、その道のプロフェッショナルです。徂徠らのサークル・訳社で講師を務め、唐話テキストである「唐話纂要」を出しました。享保元年(1716)のことです。

 訳社の解散後、彼は京都にやってきます。
 そこで、「唐話類纂」「唐話使用」(1725)、「唐話雅俗語類」「唐訳便覧」(1726)など、数多くのテキスト類を京都で出版します。
 唐話の“家元”が京に上ってきて、これだけテキストを上梓したのですから、京都の文化人は喜んで唐話を勉強したでしょう。それがきっと、知識欲旺盛でお金も暇もある商家の旦那衆に広がったに違いありません。
「徳太郎」も、そんな一人だったのでしょう。

 けれども、川柳「売り家と唐様で書く三代目」さながら、彼もまた財産を吐き出して逼塞してしまうのでした。
 世の中、皮肉なものです。

 「世間学者気質」の物語は、あくまでフィクションで大袈裟に書かれていることは否めません。しかし、登場する唐話=中国語は、作者が知っていたからこそ書けたもので、それを受け入れる読者層も多少なりともあったのでしょう。
 江戸中期の京都には、唐話から書画、煎茶に至るまで、中国文化が充満していたのです。長崎を除くと、やはり稀有な町かも知れず、こんな観点で京都を眺めることも、時にはおもしろいと思います。



 
 書 名:「世間学者気質」巻之一
     (第一 唐人の寝言は孔子も時にあはず、
      第二 子曰で禍の趣る三年の忌中)
 著 者:無跡散人
 収録書:帝国文庫30『気質全集』博文館
 刊行年:1893年



 【参考文献】
 田中優子『江戸の想像力』ちくま学芸文庫、1992年(原著1986年)
 西原大輔「江戸時代の中国語研究-岡島冠山と荻生徂徠-」、「比較文学・文化論集9」13-19、1992年 所収
 岡田袈裟男「唐話の受容と江戸の言語文化」、「国語学」54-3、2003年 所収


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