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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS朝日「京都ぶらり歴史探訪」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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災い転じて福となした裏松光世の大内裏考証





紫宸殿


 御所造営の変遷

 前回、廬山寺に公家・中山家の墓所があり、中山愛親(なるちか)の墓があることを紹介しました。
 今回は、その中山愛親もかかわった出来事について取り上げてみましょう。

 現在の京都御所が、里内裏(天皇の臨時の居所)であった東洞院土御門殿から発展したことはよく知られています。
 しかし、この場所に落ち着いてからも、建物自体は焼失などにより何度も建て直されています。
 近世に入っても、天正、慶長、寛永、承応、寛文、延宝、宝永……と造営が繰り返されました。
 宝永度の造営は、宝永6年(1709)でしたが、約80年後の天明8年(1788)に起きた天明の大火によって全焼してしまいます。
 「都名所図会」には巻1の冒頭に「内裏之図」が掲載されていますが、同書は安永9年(1780)刊行なので、天明の大火直前の御所の様子を示している図といえます。

 「都名所図会」より内裏之図
  「都名所図会」巻1 「内裏之図」

 少しクローズアップで見てみましょう。

 「都名所図会」より内裏之図

 これは紫宸殿と南門あたりを描いた部分。現在、紫宸殿の東、西、南にある回廊がありません。

 さらに紫宸殿の拡大です。

 「都名所図会」より内裏之図
  紫宸殿(「都名所図会」)

 現在の紫宸殿(冒頭の写真)より、規模も小さいようですし、中央に唐破風を付けた向拝が付いていたりします。
 どちらかというと、こちらに似ているでしょうか。

 仁和寺金堂
  仁和寺金堂

 仁和寺の金堂です。
 この建物は、もとは慶長18年(1613)に造営された御所の紫宸殿でした。移築後、屋根の葺替え(瓦葺になった)など変更が加えられていますが、当所の雰囲気がうかがえます。

 安政2年(1855)に造営された現在の紫宸殿は、実は、この慶長度の紫宸殿とは“断絶”があるのです。
 というのも、「都名所図会」に登場する宝永度の御所と、その次に出来た寛政度の御所とには設計思想の違いがあったからです。


 松平定信と中山愛親のバトル!

 天明の大火後、早速新たな御所造営が検討されます。御所の造営は、幕府の仕事でした。幕府は、老中の松平定信を総奉行に任命します。通常、その任務は京都所司代あたりの役目でしたが、今回は異例の抜擢です。当時、幕府の財政は火の車で、教科書にも出てくる「寛政の改革」で緊縮財政を進めたのが定信でした。
 前回の廬山寺の項では、「尊号一件」をめぐって中山愛親らとバトルを繰り広げる“松平越中守”ですね。
 幕府は、定信を責任者にして、できるだけ質素な御所を、それも段階的に建てていくという、節約術で造営を行おうと考えていました。

 一方、朝廷も、異例の御所造営掛(かかり)を設置し、中山愛親(なるちか)、広橋伊光(これみつ)、勧修寺経逸(かじゅうじ つねとし)を任命します。ここで、中山愛親が登場。
 つまり、尊号一件の前哨戦が、この御所造営をめぐってバトルされるわけなのです。

 朝廷が考えていたことは、御所を「復古調」で造営することでした。復古調とは、一言でいうと、平安時代のように造る、ということです。時の天皇は、光格天皇。朝儀の復興に意欲的でした。

 といっても、平安時代は当時からみても800年とか1000年も前の話です。そんな昔の御所を復元できるのか? 誰もがそう思うでしょう。
 ところが、ひとつの手掛かりがあったのです。それは、ある公家の研究の成果でした。


 裏松光世の大内裏研究

 裏松光世(うらまつ みつよ)。裏松固禅ともいいます。
 彼の優れた仕事が、新たな御所造営を実現したのでした。

 それまでの内裏は、狭くて不便という指摘がありました。つまり、光格天皇が目指す立派な儀式を行うためには、十分な広さをもち威厳に満ちた復古的空間が必要だったのです。

 その空間を造る根拠になったのが、裏松光世の研究でした。光世は、平安京の大内裏について建物の配置や構造をつぶさに調べて「大内裏図考証」という大作を著していました。

 幕府と朝廷のバトルは、議論の末、朝廷側の勝利となり、光世の仕事が活かされることになります。
 ちなみに、この一件に敗れて気を悪くした松平定信が、前回ふれた「尊号一件」の引き金をひいたのです。

 紫宸殿
  現在の紫宸殿(安政度の造営)

 清涼殿
  現在の清涼殿(同上)

 この寛政度の造営で、復古調で造られたのは、紫宸殿、清涼殿、そして北の奥にある飛香舎(中宮・女御の在所)に限られ、常御殿などは復古調でなく宝永度の建物並みでした。
 そして、紫宸殿の南庭は回廊で囲まれて儀式空間の威儀を整えており、光格天皇らの意識と合致しています。

 ただ、復古的に建造したとはいえ、江戸時代に造ったという特徴は拭えません。

 紫宸殿
  現在の紫宸殿

 現在の紫宸殿などは幕末(安政度)の造営ですが、寛政度の様式を引き継いでいます。
 正面の写真で分かるように、屋根のボリュームが大きく急な勾配になっており、近世的な雰囲気です。
 細部も、床が高く、寝殿造らしからぬ手先の出た組物や尾垂木を用いていて、平安時代とは異なった特徴がうかがえます。

 とはいうものの、光世の考証の成果が取り入れられ、それまでの御所とは一変した形式になったのも事実でしょう。


 蟄居の末に…

 実は、光世はこの考証をまとめるのに、30年もの歳月を費やしました。
 そして、その30年も普通の年月ではなかったのです。

 18世紀半ば、朝廷の公家の間に、竹内式部(たけのうち しきぶ)という人物の思想的影響が広がっていました。越後生れの式部は、京都に上って公家の徳大寺家に仕えていましたが、思想家・山崎闇斎の垂加(すいか)神道の信奉者でした。その思想は、仏教を排し、天皇を中心とした国体を強調するものでした。
 式部の思想は、徳大寺公城をはじめ、正親町三条公積ら数十名の公家に広がり、とりわけ桃園天皇(在位1747-62)の近臣に影響を与えました。さらに式部が天皇に「日本書紀」の講義を行ったりしたものですから、それに反対する摂関家と近臣たちの反目が深まりました。
 最終的に、天皇の近臣である多くの公家が、宜しからぬ行いということで、蟄居(ちっきょ)などの厳しい処分を受けました。宝暦8年(1758)のことです。これを宝暦事件と呼んでいます。

 この処分された公家の一人に、裏松光世がいたのでした。このとき弱冠22歳、正五位下左少弁。「遠慮」という蟄居のような処分を受け、仕事も失い家に籠ることになりました。
 このときから、大内裏の考証に身を捧げることとし、過去の有職故実書を調べ、夜には御所の実測を行ったとも言われるほど熱心に研究に勤しみました。
 例えば、紫宸殿の項を見てみると、檜皮葺の厚さは何寸とまで細かい調査が行われています。

 蟄居から天明の大火まで、ちょうど30年。
 もし、宝暦事件で光世が処分されていなければ、復古調の御所も日の目を見なかったかも知れません。




 京都御所

 所在 京都市上京区京都御苑
 見学 申し込み制 春秋に一般公開(無料)
 交通 地下鉄今出川駅、丸太町駅から、徒歩約10分



 【参考文献】
 三好和義『京都の御所と離宮① 京都御所』朝日新聞出版、2010年
 藤田勝也ほか『日本建築史』昭和堂、1999年
 藤田覚『幕末の天皇』講談社、1994年(講談社学術文庫所収)
 藤田覚『江戸時代の天皇』講談社、2011年
 谷直樹ほか編『世界遺産をつくった大工棟梁 中井大和守の仕事』大阪市立住まいのミュージアム、2008年



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