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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS朝日「京都ぶらり歴史探訪」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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生き生きとした京の町衆の原点を探る - 林屋辰三郎『町衆』 -

京都本




   『町衆』



 変わりゆく京都への危惧

 本というのは面白いもので、同時代に出された本は似たような論調のものが多くなります。軽く編集されたものだと、内容まで孫引きというケースもよく見られます。
 いま(2013年)、新刊だけ読むことを重ねていると、どうしても思考が“2013年的”になってしまい、偏ったものの見方、考え方に陥るおそれがあります。
 その弊害を避けるためには、やはり古い書物を読むこと--というわけで、折にふれて古書を読んでみます。
 この1か月余りは、断続的に、林屋辰三郎『町衆 京都における「市民」形成史』を読んでいました。いまから半世紀前、昭和39年(1964)に中公新書として刊行されたものです(のち中公文庫に収録)。

 林屋辰三郎(1914-1998)といえば、歴史学では大先生で、芸能史の研究でも草分け的存在ですが、私たち京都を旅するものには、岩波新書『京都』が今なお重版されている名著として記憶されます。
 林屋先生の著述は、戦時中の『角倉了以とその子』にはじまり、戦後、『中世文化の基調』『歌舞伎以前』『中世芸能史の研究』『京都』など精力的に出版され、そのなかで著された一書が『町衆』です。

 ですから、次に紹介する「まえがき」に書かれた著述の動機は、100%そのまま受け取るわけにもいかないのですが、当時の京都で暮らし、研究されていた林屋先生の気持ちの一端をうかがうことができると思います。(引用文は適宜改行しています)

 京都ではいま、「応仁の乱いらいの破壊が行われている」という警句がきかれる。しかしそれは、京都だけのことではない。全国的に都市・農村の近代化、観光・産業の開発といった気運のもとに、新しい施設や道路の建設がすすめられ、それらが日本の歴史的風致や文化財の破壊を、つぎつぎにともなっているのである。
 とくに京都の変貌はいちじるしく、さいきんでは名勝双ヶ岡の売却問題や、史跡御土居の破壊、さらに駅頭の京都タワー建設などは、京都の歴史性や芸術性をまったく無視したものだと思う。
 こうした現在の破壊を見るにつけても、この千年の古都を今日まで伝えつづけてきた祖先たちのことが思われてならない。応仁文明の乱という内乱はたしかに、京都の文化を破壊してしまったが、それはまったく戦争の犠牲であった。現在のようにせっかく第二次大戦の戦禍から守られてきたものを、権力機関の独善や観光業者の利益のために破壊されるのとはまったく違う。
 しかしともかく文化の破壊に対してふかい憤りをもつことにおいては、応仁の乱から戦国にかけての町衆も、現在の京都を愛する市民も、すこしも変りはないと思われる。(2-3ページ)


 さらに続けて、伝統行事や祭礼の廃絶、歪曲が全国的に問題になっているとして、祇園祭について「山鉾巡行の形式がどこまで改変されるか見当のつかないくらいで、前後の祭を一つにして盛大にやる案や、山鉾を一カ所に年中立て並べて観覧料をとる案などが論議されている」と述べています。
 このような状況を招いた原因として、急速な地域的共同体の解体を指摘します。
 そして、その中で町衆の歴史を振り返ることに意味があるのではないかとして、本書を著したというのです。

  祇園祭山鉾巡行
  祇園祭 山鉾巡行

 京都タワーが建ったのが、本書が刊行された昭和39年(1964)。当時、“古都の破壊”として多くの文化人らが反対したのでした。
 また、祇園祭の山鉾巡行が一本化されたのは、昭和41年(1966)のこと。“神事か観光か”と、侃々諤々の議論がなされていた時期でした。
 なお、祇園祭の「一本化」とは、それ以前、「前祭」と「後祭」の2回に分けて巡行していたものを、1回にまとめて実施することを言っています。 詳しくは、こちら ⇒ <祇園祭の山鉾巡行に「後祭」が復活>

 戦後の高度成長の中で、町並みが変貌し、伝統が崩れていくのを見て、その要因を地域共同体の解体に求めたのは、林屋先生の慧眼だといえるでしょう。


 条坊から両側町へ

 少し大きな話になってしまいましたが、本書には、京都の町のあり方の基本的なところから、エピソード的な話題まで、実に盛りだくさんな内容です。

 京都の街区は、もともとは平安京の条坊に始まるわけですから、いわゆる“碁盤の目”状のグリッドになっています。
 林屋先生の表現を引けば、「条坊は東西南北に走るいわゆる碁盤目の道路による一町四方を町(その内部は東西に四行、南北に八門の小区画に分たれていた)、四町を一保、四保を一坊として左右両側に各条四坊からなっていた」ということになります。
 要は、4本の道路に囲まれた1ブロックが街の1単位になっているわけです。
 
  条坊図 平安京の条坊(『町衆』より)

 ところが、南北朝時代を境にして、地域の生活組織としての「町」が現れます。
 ちなみに、京都の全体でいうと、平安京では「東西」あるいは「左右」として理解されていた町(例えば「左京」など)が、「上下」として理解されるようになってきます。「上京」と「下京」ですね。今日でも上京区、下京区という名が残っていますが、当時の京都の街を示す概念図を見ると、上京と下京が街の中に浮島のように分立していることが分かります。

 この町を詳しくみると、古代の道路に囲まれたブロック単位から、街路に面した「両側町」へと変化していきます。

 その生活組織の形態についてみると、かつて条坊の最少単位であった一町は四方を街路で囲まれた方一町の区画であったのに対して、新しい町は四方に面した方一町の四つの頬[つら]が、それぞれ街路を挟んだ向い側の一頬と合さってつくられる。すなわち、街路を挟む二つの頬が合さって一つの面[おもて]ができ、一つの町となるのである。(89ページ)

  両側町
  両側町(『町衆』より)

 道路のお向かいさんが同じ町内になる、ということですね。
 ということは、町の境界線は道路の真ん中にあるのではなく、家の裏(背中側)にあることになります。

 今日、京都を訪れる(あるいは暮らす)人たちにとって興味深いのは、次の指摘でしょう。

 こんにち京都では、町名に東西路・南北路の交錯と上ル・下ル・東入・西入という表示とが重なっているのがふつうである。「四条烏丸東入長刀鉾町」というぐあいである。このような町のよび方こそ、街路を挟んでつくられた生活組織の名残りである。(89-90ページ)

 京都では、何かにつけて「上ル、下ル」「東入ル、西入ル」と言います。他都市の方には奇異で分かりづらいと映ることもあるようです。先日も、「京都だけ、そのような言い方をしているのはおかしい」という方がおられましたが、道路を挟んで向い合って町を形成する暮らし方、そしてその歴史が言わせているわけです。ブロック単位の町名表示は、京都にはふさわしくないといえるでしょう。
 ちなみに、大阪も都市形成の過程は異なるものの、京都と同じく両側町でした。しかし、戦後の町名改正でブロック単位の表記に変更されています。こちらについては、「残念だ」とおっしゃる方が多いですね。
 

 町衆と公家のまじわり

 山科言継(やましなときつぐ、1507-79)という公家がいます。戦国時代の京都に暮らした公家で、上京に住んでいました。いまの京都御所の西方です。
 本書に紹介される言継の日常は、なかなかおもしろいのです。

 言継の頃、山科家は公家とはいえ生活は逼迫し、その暮らしぶりは「町衆の生活となんら異なるものではなく」というありさまでした。
 質屋に腰刀や装束を質入れし、米屋から借金をして、なんとか生活をしのいでいました。三条室町あたりにあった町の風呂屋にも入りにいっていたそうです。
 彼は、医術や製薬の知識もあったので、次のような話もありました。

 ある日、近所の大工の麺屋の下女が熱湯のために全身に火傷をおう事件がおこったが、言継は連日のように家伝の気付薬や塗薬を遣わして、人間味のあふれた心配をした(天文2-9-10条)。そこで下女のほうからも、親類の者といっしょに礼に来るし、傭主もお礼にといって金子十疋を持ち来ったというしだいで、こまやかな近所づきあいを示している。(107ページ)

 なにか、ふつうのご近所さんといった感じですが、京都にはこんな風があって、昔から上下へだてのない付き合いがあったのでしょうか。
 山科言継より少し前の公家に三条西実隆(さんじょうにしさねたか)という人がいます。彼の日記にも興味深い記事があって、本書に紹介されています。お盆の時期に行われる「大燈呂」という万灯会のような行事の際の出来事です。

 ある日、御所の西側の橘図子という町辻で子供たちが大燈呂をつくって遊んでいると、侍所の開闔[かいこう]という、こんにちでいえば警察官が二、三人突然あらわれて、大燈呂の制止を命じた。そこで町衆がこれに対応しようとすると、問答無用とばかり燈呂を壊しはじめた。あまりに無慈悲な乱暴に、町の人たちも出合って、逆に開闔を制止したが、なかなか聞かないばかりか、ますます猛り狂う。そのうち町の一人が開闔の木刀を奪い取って、これを打擲[ちょうちゃく]してしまった。
 これは、現在でも公務執行妨害ということになる。そこで開闔は、いったん引揚げたが、こんどは二、三百人も隊を組んで橘図子を包囲し、町を焼打ちにするといって脅迫した。さすがの町衆も大いに憤慨し、大事に至らんとしたが、ちょうど近所に三条西実隆が住んでいて調停に入り、ようやく事態を収めることができたと、これは実隆が自分の手柄話としてくわしく日記に書きつけている。(161ページ)


 ちょうど近所に住んでいた、というのがおかしいのですが、町に溶け込んで暮らす公家たちが巧みに仲裁役になっているのが興味深いですね。
 林屋先生は「三条西実隆といい山科言継といい、この時期の公家は町衆生活のなかに入りこみ、その文化的教養をもって町衆に影響をあたえていたが、同時に幕府に対してもいちおう顔を利かしえたわけである」と、まとめておられます。

 本書のおもしろさは、なかなか一言では尽せないのですが、岩波新書の『京都』とあわせて読んでみると、その歴史の奥深さと現代へのつながりが感じられて、京都の理解が進むことでしょう。




 
 書 名:『町衆 京都における「市民」形成史』
 著 者:林屋辰三郎
 出版社:中公新書59
 刊行年:1964年


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