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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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京都御所にある隠れた公家邸跡 - 摂家・九条邸 -





九条邸跡


 五摂家は“豪邸”住まい

 京都市街の中で、のんびりとした公園気分が味わえるのが、鴨川の堤防と、京都御所。
 つい「御所」と言ってしまいますが、あの広い公園的な部分は「京都御苑」で、御所と言うと昔、天皇が住んでいた禁裏、今の「京都御所」や、「仙洞御所」「大宮御所」などを指しています。

 京都御所
  広々とした京都御苑

 しかし、このような状態になったのは比較的新しく、130年ほど前のことです。それまでは、外周の土塁もなく、公家の邸が立ち並ぶ場所でした。公家町というにふさわしい、ちょっとした街区だったのです。

 
  幕末の京都御所
      京都御苑パンフレットより(環境省京都御苑管理事務所)


 この図を見ると、禁裏と大宮御所、仙洞御所以外は、さしずめ“公家団地”といった感じです。長屋ではないものの、中小の公家はずらっと屋敷地を並べて住んでいました。

 こちらの記事もご覧ください。 ⇒ <御所にもあった“お公家さん”的数え歌”>

 その中で、いくつか“豪邸”があります。図で緑色になっている邸ですね。
 堺町御門にある九条家と鷹司家、今出川御門にある近衛家です。あと、近衛家の左斜め下にある一条家も大きな敷地です。
 これらの豪邸の主は、五摂家です。五摂家とは、摂政や関白になれる最も格の高い公家のこと。近衛、九条、二条、一条、鷹司の5つを指します。
 そうすると、二条家が図にはないですね。どこに住んでいたのだろう?

 実は、二条家は、今の京都御苑の外、今出川通の北にある同志社女子大学の場所にあったのです。

 二条家跡の同志社女子大学
  二条家跡(同志社女子大学)

 
 九条家の邸跡

 上図で、南の端にあるのが、九条家と鷹司家です。
 なかでも、九条家は大きく画かれていますね。
 現在の堺町御門は丸太町通に面していますが、江戸時代の堺町御門はもう少し中に入ったところにあり(上図)、その門内に両邸がありました。上図の九条家の下半分くらいは、当時の絵図などをみると「明地」(空地)としてあったりします。
 では、実際にはどうなっていたのでしょうか。
 現地に行くと、おもしろいことが分かります。

 九条邸跡

 このように、大きな池が広がっているのでした。俗に九条池といいます。
 池の向う(西側)に二階家が見えますが、これは「拾翠亭(しゅうすいてい)」といい、九条家時代からあるものです。

 拾翠亭

 毎週、金・土曜日に公開されます(3月~12月)。

 また、池の中央には橋が架かっています。

 九条邸跡

 高倉橋というようですが、高倉通の名を取っているのでしょうか。 

 そして、神社もあります。

 厳島神社

 九条家の鎮守であった厳島神社。平清盛が、安芸の厳島神社を兵庫に勧請し、さらに足利義晴が京都に遷したといわれます。鳥居が変わっていますね。


 明治初期に整備された京都御苑

 明治になり、天皇が東京に遷ると、公家たちも居を移し、御所はさびれていきます。

 京都大内(おおうち)ハ千余年、歴朝ノ皇居ニ候処、戊辰御東幸之後、僅ニ八、九年之間、既ニ廃堕之状ニ至リ、九門以内モ稍荒蕪ニ赴候形況(後略)」 (宮内省「大内保存御沙汰書」明治10年)

 このように、天皇が明治2年(1869)に遷幸して、たった8、9年で荒廃していったというのです。
 
 明治10年(1877)、京都に行幸した明治天皇はこの状況を悲しみ、御所の整備を命じます。これが、大内保存事業と称されるもので、京都府に毎年4000円の大金を給付して、事業を行わせるものです。
 具体的には、明治10年から16年(1883)にかけて、土地を買い上げた上で、外周に石塁を築き、その上には松を植え、門を整備し、植栽を整えました。
 九門と呼ばれる今出川御門、蛤御門、堺町御門などは、石塁の位置まで移動させられました。

 京都御所
  石塁の現況

 堺町御門
  丸太町通に面した堺町御門

 九条邸跡については、明治11年(1878)から13年頃に、高倉橋が架けられました。
 この橋脚に用いられた石は、三条大橋の石の橋脚といいます。

 九条邸跡
  九条池に架かる高倉橋

 このことについては、こちらをご覧ください。 ⇒ <三条大橋のたもとに残る橋脚は「天正」の刻銘がある“御影石”>

 明治10年代の整備事業によって、御所は現在私たちが見るような形に姿を変えたのです。
 公家邸跡の撤去に始まり、石塁の築造、門の移動と整備、苑路と植栽の整備など、大工事でした。
 
 これらの詳細については、高木博志氏の論文に詳しいのですが、九条邸跡のすぐ近くにある「閑院宮邸跡」の収納展示室に行くと、たいへん分かりやすく解説されています。現地見学もできて一石二鳥です。お近くの方は、ぜひ!

 閑院宮邸跡
  閑院宮邸跡

 その展示室に、明治初期のものと思われる九条邸・拾翠亭の写真があります。ひと目見て、これは料亭に転用されている、と分かる姿です。滑稽かつ物悲しい姿ですが、整備によって面目を施したわけです。

 御所の南の端は、余り行かない場所なのですが、他に宗像神社などもあって、なかなか充実しています。ぜひ散策してみてください。




 九条邸跡

 所在 京都市上京区京都御苑
 見学 自由
     拾翠亭内部は、毎週金曜・土曜日に公開(3月~12月)100円
     閑院宮邸跡は無料公開(月曜、年末年始休み)
 交通 地下鉄丸太町駅から、徒歩約3分



 【参考文献】
 高木博志『近代天皇制と古都』岩波書店、2006年


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