昭和9年の室戸台風は、京都の文化財にも大きな被害を与えた
|寺院|

昭和9年9月21日の風水害
最近の異常気象は、自然の猛威の恐ろしさを感じて余りあるものがあります。歴史的に振り返ると、いつの時代も激しい災害に見舞われており、私たちの歴史は自然との共存と闘いの歴史であったともいえます。
台風の災害でいえば、終戦後の昭和20年代に強い暴風を伴う台風が数多く襲来し、大きな被害を与えたことが知られています。その前駆というべきでしょうか、昭和9年(1934)9月21日の朝に関西を直撃した室戸台風は、多くの人命や財産を奪い、人々の記憶に深く刻まれた風水害でした。
最低気圧は911ヘクトパスカル、瞬間最大風速60メートル、死者・行方不明者は3037名にのぼりました。
この台風は、殊に大都市・大阪に甚大な影響をもたらしたのですが、それを象徴的に表す出来事が、四天王寺五重塔の倒壊でした。
一般にお寺の塔は倒れないものと相場が決まっており、幸田露伴の「五重塔」にも描かれています。
ところが、室戸台風は四天王寺の五重塔を倒したのでした。倒壊後、塔自体の造りに不備があったのではという見解も出されるのですが、とにもかくにも強烈な暴風が吹き荒れたのでした。
京都の文化財の被害

大阪の南木芳太郎が編集、発行する郷土雑誌「上方」は、昭和9年(1934)10月号を<上方大風水害号>と特集を組みました。その表紙は「大台風四天王寺五重塔倒壊図」(長谷川小信画)。倒壊現場と、包帯を巻いた仁王さんが描かれています。
巻頭で南木は、「今度突如襲来せし台風高潮は未曽有の事とて近畿地方の蒙れる惨禍は実に甚大にして戦慄の外無之候(これなくそうろう)」と述べています。
「上方」は、ふだんは大阪を中心とした郷土誌ですが、この回は関西一円の台風被害についてページを割き、京都についても、文化財の被害を中心に詳しく触れています。特に、京都の被害写真は20葉にものぼります(冒頭の写真は「京都東福寺境内山門の袖破壊」)。
いくつか紹介しましょう(キャプションは「上方」掲載のまま)。

「京都嵐山散策道附近の倒木」
保津川に沿った遊歩道の様子です。
寺社にも被害が出ました。

「京都法然院山門の倒壊」

「京都醍醐寺三宝院純浄観の倒壊」

「京都大徳寺境内の倒木と塀の破壊」

「京都豊国廟下の日吉神社の拝殿倒壊」

「荒れはてた南禅寺境内の倒木」
同誌は、大阪毎日新聞の記事を引用し、国宝建造物の復旧に要する費用は12万7000円余と記しています。その内訳は……
賀茂別雷神社 上屋全壊 7000円
建仁寺 方丈全壊 10万円
醍醐寺三宝院 純浄観全壊 1万5000円
荒見神社(久世郡)本殿全壊 5000円
賀茂御祖神社 橋殿・御供所半壊 金額調査中
それ以外に、被害のあった主な社寺をあげると……
石清水八幡宮/平野神社/吉田神社/北野神社/八坂神社/平安神宮/(伏見)稲荷神社/松尾神社/妙心寺/西本願寺……
などを含め、全部で25社寺が被害を受けています。
北尾鐐之助のコメント
この大阪毎日新聞の報道を北尾鐐之助も引用し、『京都散歩』中の「台風破壊の跡」に次のように記しています。
これ等の建物の被害は、直接風力によつて破壊されたものは至つてすくなく、多くは四囲の樹林や大木などが倒れ、その下敷になつて屋根などを打ち砕かれたものである。しかし、京都府下には、凡そ三百棟に近い国宝建造物があるが、その大部分は破損を免れ、殊に最も風力を受けた筈の市内の木造塔婆が、一ツも倒壊しなかつたのはまるで奇蹟のやうであつた。(348ページ)
大阪では五重塔が倒れましたが、京都では木造塔婆、すなわち五重塔や三重塔などがひとつも倒れず「奇蹟のようであった」と述べています。
また風致林の被害は激しく、殊に清水の音羽山は「背後の山が殆ど坊主山になつてしまつた」と記しています。

「京都音羽山(清水寺奥ノ院)の倒木惨状」(「上方」より)
北尾は、8ページにわたる報告を、次のように締めくくっています。
京都の市中をとり廻らす風致林の色彩が、今後何十年かして、或ひは一変するやうなことになるかもしれない。また、倒れた古建築も、やがて修理をして再び立ち上るであらう。しかし、一旦傷けられたものは、形態はとも角として、時代のもつ感覚や、気品が非常に減退するやうな気がする。あの一時間にも足りない一吹きの嵐が、すべての景観を破壊し、一千年に亘る間の人類の仕事の中で、最も高きものゝいくつかを奪ひ去つた。
自然の愛は限りがなく、自然の暴虐もまた限りがない。(353-354ページ)
小学校の倒壊
最後に、ぜひ触れておきたいことがあります。それは学校の被害です。
室戸台風が、京阪神を襲ったのは午前8時頃でした。折しも登校してきた児童たちが倒壊した木造校舎の下敷きとなり、それを救おうとした教員もまた犠牲になりました。京都市内でも南部の小学校を中心に校舎の倒壊が数多く見られ、尊い命が失われました。

「京都西陣小学校の倒壊」(「上方」より)
西陣小学校の旧校舎の倒壊の模様です。この写真は、児童たちを救出しているところを撮影したもののようです。
当時、10教室で学んでいた約500名の児童と教員が下敷きになり、41名の児童が亡くなりました。
校舎の復興は昭和11年(1936)になされ、風水害にも耐える鉄筋コンクリート造3階建の校舎が竣工しました。

西陣小学校 校舎
上京区のホームページには、「学区案内」が掲載されています。
桃薗学区、すなわち桃薗小学校は、私も記憶にあるのですが、大宮今出川を上がってすぐの場所にありました。西陣学区の南隣の学区です。
ホームページには、卒業生の思い出が載せられていますが、一様に室戸台風の思い出を語っているのです。
私たちの学校は台風の直前に鉄筋コンクリートの校舎ができて無事だったが、お隣の学校では大勢の友達が亡くなった、と。
ほんの一足早く鉄筋校舎が出来たために助かった児童たちと、木造校舎で命を落とした児童たち。
関東大震災以降、校舎をはじめ、建造物や橋梁では耐震耐火化が必須の課題でした。しかし予想外にも、台風が関西を襲うことになったのです。人生の不条理というには余りにも悲しい出来事で、言葉を失います。
【参考文献】
郷土雑誌「上方」46号(1934年10月号)
北尾鐐之助『京都散歩』創元社、1934年
京都市上京区ホームページ
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