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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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三条大橋のたもとに残る橋脚は 「天正」の刻銘がある “御影石”





三条大橋


 擬宝珠(ぎぼし)の銘文

 京都には名橋が多いのですが、今も昔も最も著名で、往来も激しいもののひとつが三条大橋でしょう。

 「都名所図会」より三条大橋
  「都名所図会」より「三条大橋」

 江戸時代、四条大橋はどちらかというと、河原が広がり芝居が立つ場所というイメージで、「都名所図会」巻2にも「四条河原夕凉之体(てい)」という図が描かれています。
 それに対して三条大橋は、上図のように、流れの早い鴨川に架かる立派な橋を描画しています。
 本文にも、詳しい橋の解説があります。

 三条橋は、東国より平安城に至る喉口なり。貴賤の行人常に多くして、皇州[みやこ]の繁花は此橋上に見へたり。欄干には紫銅の擬宝珠[ぎぼし]十八ありて悉く銘を刻む。其銘に曰、「洛陽三条之橋、後代に至りて往還人を化度す。盤石之礎、地に入ること五尋、切石之柱六十三本、蓋し日域に於いて石柱の濫觴乎。天正十八年庚寅正月日 豊臣初て之を御代に奉る 増田右衛門尉長盛 之を造る」(カッコ内は原漢文) 「都名所図会」巻1

 「都名所図会」は、橋の擬宝珠(ぎぼし)に彫られた銘文を丁寧に紹介しています。

  三条大橋
  三条大橋の擬宝珠

 擬宝珠とは、橋の高欄に付けられる金具で、ネギ坊主のような形をしています。多くは銅などの鋳物です。
 「都名所図会」が引く銘文は、今でも現地で読むことができます。

 三条大橋

 三条大橋
 冒頭には「洛陽三条」とある

 銘によると、この橋は切石の橋脚が63本あって、地中へ「五尋(ひろ)」の深さで埋まっています。「尋」は両手を広げた時の長さを示しますので、1.8mとすると、約9mも打ち込まれていることになり、まさに「盤石の礎」です。そして、これが日本における石柱を用いた橋の初めといいます。
 天正18年(1590)正月に豊臣秀吉が、増田長盛に造らせました。

 意味深長なのが、冒頭の「洛陽三条の橋、後代に至りて、往還の人を化度(けど)す」というところ。三条大橋を往き来する人たちを化度(導き、救う)というのです。なんだか、分かったような分からないような記述です。
 単純に、頑丈な橋を架けたから、みんなの通行が便利になって助かる、というふうにも解釈できます。しかし深く読めば、架橋した秀吉の意気込みを見ることもできるようです。

 朝尾直弘氏は「これは豊臣政権が人びとを『化度』するために架橋したと読める。秀吉は天正17年(1589)架橋を命じ、翌18年橋は完成し、3月1日秀吉は小田原の後北条氏を討つため橋を渡って東国に向かった。天下一統の事業と結びついて橋はできたのであり、『化度』のなかにはそれも含まれていたといえよう」(『京の鴨川と橋』)。
 国を平らげて民に安心をもたらすという大きな意味ならば、この橋もその一環だったのでしょう。


 石の橋脚

 「都名所図会」によると、擬宝珠は18、石の橋脚は63あったといいます。

 「都名所図会」より三条大橋
  「都名所図会」の三条大橋全景

 「都名所図会」より三条大橋
  高欄の擬宝珠と石の橋脚が描かれている

 現在は、このような感じです。

 橋の上です。

 三条大橋

 橋の下です。

 三条大橋

 これは上流側なのですが、コンクリートの橋脚となっています。
 ところが、下流側は違うのでした。

 三条大橋

 根本(水に浸かっているところ)はコンクリートですが、その上から橋桁までは石なのです。これについては、あとで触れることにします。

  三条大橋

 上にあがって、橋の西詰、スターバックスのあるところに、1本の石柱が保存されています。

  三条大橋 三条大橋

 石柱には、「天正十七年津国御影」「七月/吉日」と刻まれています。
 「津国」は摂津国(現在の大阪府北部と兵庫県東部)ですから、まさに神戸市御影(みかげ)から取ってきた「御影石」ということになります。
 
 山野祥子氏によると、この橋脚の製作には、近江の馬淵石工や、伊賀、和泉、摂津などの石工が携わったといいます。


 明治末には残っていた天正期の橋脚

 しかし、大正元年(1912)の架け替え時に、この天正期の橋脚も替えられたといいます。不要になった石柱は、平安神宮の神苑など、京都市内の庭園の庭石に用いられていると山野氏は指摘しています。
 ということは、いま三条大橋に使われている石の橋脚は、大正初期のものということになります。

 少しばかり古い論文ですが、明治44年(1911)の「考古学雑誌」1-11に掲載された岩井甍堂(武俊)「京都の金石文(一)」は、三条大橋の擬宝珠銘について考察しています。
 特に、その橋脚について、岩井はこう述べています。

 (前略)現今では其の石柱は三本列び(三本列びの両端の分は円柱、中央の分は方柱也)十六行、都合四十八本、其の各柱は中程で継いである、橋下の河底には石が敷き詰めてある、

 として、石柱の中には「天正十七年津国御影」云々の刻銘のあるものが数本ある、と言っています。
 つまり、明治末の段階では、まだ天正期の橋脚が川の中に立っていたわけです。
 また、五条大橋には、同様の刻銘を持つ橋脚が比較的多く残っているといいます。

 さらに岩井は、「天正十七年御影」「吉日/五日[ママ、五月か]」の銘を持つ柱石が、京都府庁構内に1本と、京都御苑の九条池に架かる高倉橋に数本ある、と述べています。この石柱については、どこのものか不詳としていますが、興味深い発見です。

 『京都名勝誌』によると、大正元年(1913)10月に竣工した新たな三条大橋は、

形式旧に依るといへども、幅員甚しく拡大せるを以て、かの天正の石柱を徹し(市内各神社公園などに配布して記念物とす。)新橋柱を用ひたり。

 とあり、天正の橋脚は替えたけれど、擬宝珠だけは天正期のものをそのまま使用したと記しています。
 まさに「記念物」となった往古の橋脚は、すでに同書(1928年刊)にも、橋詰に据えられている写真が掲載されています。

 「京都名勝誌」より三条大橋
  『京都名勝誌』より「三条大橋」
   柳の下に天正期の石柱が保存されている

 「新撰京都名勝誌」より三条大橋
  大正元年に架け替えられた三条大橋(『新撰京都名勝誌』より)
  現在より、橋脚がずいぶん短いのが分かる




 三条大橋
 
 所在 京都市中京区中島町
 見学 自由
 交通 京阪電鉄「三条」下車、すぐ



 【参考文献】
 「都名所図会」1789年
 『新撰京都名勝誌』京都市、1915年
 『京都名勝誌』京都市、1928年
 門脇禎二・朝尾直弘編著『京の鴨川と橋』思文閣出版、2001年
 岩井甍堂「京都の金石文(一)」、「考古学雑誌」1-11、1911年
 山野祥子「京都・三条大橋橋脚の築造と「馬淵石工」」、「立命館地理学」16号、2004年


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