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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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いまは忘れられた “ゼゼウラ” は、町の歴史を伝えてくる

洛東




膳所裏


 「ゼゼウラ」って?

 この夏、祇園祭のことや祇園のことについて勉強している際、ときどき「ゼゼウラ」という聞き慣れない言葉が出てきました。
 「訛りは国の手形」とは石川啄木の名言ですが、さしずめ<地名は土地の記憶>。古い歴史を現代に伝える役割を地名は担っています。
 今回、「ゼゼウラ」という響きが妙に耳について忘れられないので、現地を訪ねてみることにしました。

 「ゼゼウラ」は祇園町北側、つまり四条通の北にあります。花街の名でいうと、祇園東の地区に当たります。

 富永町
  富永町

 四条大和大路を北に折れて、一筋目が富永町です。
 少しずつお茶屋が並んでくる街区ですが、今では現代風のお店の方が多いようですね。私など、ぜんぜん縁がない場所ですけれども、数年前、ある人に至って庶民的な飲み屋さん「Y」を教えてもらい、年に一、二度そこに行く程度でしょうか。

 しばらく歩くと花見小路と交わり、さらに東へ歩きます。

  富永町
  富永町-花見小路の東

 花見小路から東は、写真のように道が「く」の字に曲がっています。近世、近代の地図を見てもそのようになっていますから、ここが新地として開発された頃から屈曲しているのでしょう。なにか味わいがあります。

 その向こうは、乗用車が1台通れる程度の狭さ。

  富永町
  「祇園富永町通東小路西入元町」

 町名標示板をよく読むと「東小路」とあります。
 東大路は誰でも知っているけれど、東小路は初めて聞きました。

  膳所裏

 この写真の左に折れている道(実は右にも道があります)は南北の通りなのですが、これが東小路なのです。東大路の西に並行している狭路です。 
 そして、写真に収まっているあたりこそ、「ゼゼウラ」と称されていた場所なのです。

 漢字で書くと「膳所裏」となります。


 膳所裏の由来

 東大路
  東大路-むかし「小堀(こっぽり)」と呼ばれた

 祇園会館
  祇園会館-現在は、よしもと祇園花月が興行している

 江戸時代、現在の東大路の西側--いま祇園会館がある周辺--には、近江・膳所(ぜぜ)藩の京屋敷がありました。
 およそ、北は新橋通、東は東大路、南は富永町、西は花見小路に囲まれた区画の中に、屋敷が構えられていたのです。
 もう少し正確に考えると、北の新橋通の方は、通りの南の林下町(現在、ホテル・ギオン福住がある辺)に家屋が建っていて、藩邸は通りに面していませんでした。西の花見小路にも通りに面したところには清本町の民家が建っていました。東は現在の東大路に面しており、南も富永町の通りに面していました。

 富永町の通りは、いま歩いてきた狭い道です。その道の中でも、屈曲の東の一段と狭くなったあたりが、屋敷の脇に当たったため<膳所藩邸の裏>という意味で「膳所裏」と呼ばれていました。

 もともと東大路は幅2間(約3.6m)程度の狭い通りで「小堀(こっぽり)」と称していました。その西に敷地4千坪以上ともいわれる膳所藩の屋敷がありました。

 膳所藩は、現在の滋賀県大津市に膳所城を構える本多家、7万石の譜代大名です。淀藩、亀山藩、郡山藩(大和)とともに、御所や二条城を含めた京の防火にあたる「京都火消役」を仰せつかっていました。
 4藩のうち、参勤交代で江戸に出ない2藩が、1年を半年に割って当番していました。火消の任務に当たるため、膳所藩では約250名の藩士を待機させておいたといいます。たいへんな負担ですが、彼らを収容するため屋敷地もこのように広大だったのでしょう。
 ちなみに、大火が起こった場合は、藩邸詰めの人員だけでなく、国元からも大勢が駆け付けることになっていました。そのため、淀、亀山(現在の亀岡)、大和郡山、そして膳所という畿内の藩が選ばれていたのです。

  膳所裏
  東大路通四条上る1筋目西入が「膳所裏」
 (祇園会館の南側の細い通り)


 忘れられた通称地名

 明治初期にまとめられた「京都府下遊廓由緒」には、膳所裏の注記として「祇園町北側之家尻ニテ一町立ニ非ス」と記しています。つまり、四条通に面して立ち並んでいた祇園町北側の裏手に当たっていて、特に町としては扱っていない一画だということです。
 同書の付図には、富永町の通り(いまの祇園会館の南側あたり)に「俗称膳所裏」と明記されています。

 しかし、いま現地を訪ねても、膳所裏を示す痕跡はなかなか窺えません。ちょうど不動産屋のご主人が表に出て来られたので尋ねてみると、40年ここで商売しているが「ゼゼウラ」とは聞いたことがない、という返事です。
 ちなみに、その店舗のあるところは「中末吉町」というそうです。祇園会館の北側の通りに当たります。

 中末吉町
  中末吉町界隈-お茶屋が多い

 中末吉町
  看板にも「中末吉町」

 もちろん、これは末吉町という町名(花見小路より西にある)に対しての通称です。
 末吉町の通りは、古くからあり、大和大路から東へ延びていましたが、膳所屋敷に突き当って行き止まりになっていたのです。
 つまり、いま中末吉町の通りが走っているところは、まさに藩邸の中だったのです。中末吉町の通りは近代にできた新しい道ということになります。

 その中末吉町の西端あたりに、ひとつの小社があります。

 観亀稲荷社
 
 観亀稲荷神社。お茶屋さんに囲まれるように鎮座しています。
 実は、この神社、京都の火消を担当した膳所藩が勧請した火防(ひぶせ)の神さまなのだそうです。
 そうか、これが膳所屋敷の名残りだったのですね。ここも、かつては藩邸内でした。

 地図類で見当をつけていくと、どうやら、この神社の西側の道(中小路という)までが屋敷だったと推測できます。
 
  中末吉町
  「祇園中末吉町通り中小路東入」

 膳所屋敷の場所もほぼ分かり、名残りの神社にも会えて一安心。

 けれども、不動産屋さん(60歳くらい)さえ、この地名を御存知ないとなると、かなり年配の方でも知らないのかもしれません。
 地名は、地域の歴史を記憶している大切な証人です。できることなら、町の歴史とともに後世まで伝えていきたいものです。




 膳所裏(通称地名)

 所在 京都市東山区祇園町北側
 見学 自由
 交通 京阪電鉄「祇園四条」より、徒歩約10分



 【参考文献】
 「京都府下遊廓由緒」1872年(『新撰京都叢書』9 所収)
 川嶋将生・鎌田道隆『京都町名ものがたり』京都新聞社、1979年
 藤本仁文「近世京都大名火消の基礎的考察」(「史林」88巻2号、2005年、所収)


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