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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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日本画家・福田平八郎が洛北高校前から見た比叡山には、新時代の息吹が…





比叡山


 校歌の中の比叡山

 最初から思い出話で恐縮ですが、私は子供の頃からずっと洛北で育ちました(かなり北の方ですが)。
 そのため、小学校、中学校の校庭からは比叡山が望め、どちらの校歌にも賀茂川と比叡山が歌い込まれていました。
 小学校の校歌は、<賀茂の流れを軒にきき 比えいの高嶺を窓に見る 我が学舎[まなびや]の尊さよ 恵みは深し教え草>という歌詞でした。
 子供のことですから、いつ制定された歌か知りませんでしたが、いま調べてみると(便利な時代です)、昭和6年(1931)、その村が京都市に編入される際に、新たに作られたものと分かります。ちなみに、開校は明治6年(1873)です。

 実際に校庭から、毎日比叡山を見ていました。
 そして、毎週、月曜日にある朝礼で、この歌を唄っていたのでした。


 日本画家・福田平八郎の比叡山

 大正、昭和に活躍した日本画家・福田平八郎(1892-1974)は、大分県の出身ですが、京都市立絵画専門学校に学び、のちそこで教鞭を執った、京都在住の日本画家でした。写実に装飾性を織り交ぜた画風で、代表作「漣」は、ハッとするような素晴らしい作品ですね。

 その福田が、昭和5年(1930)に刊行されたアンソロジー『京都新百景』に、「下鴨北端」という文章を寄せています。このアンソロジーは、京都在住の各界の著名人が、地元や関係地の四方山ごとを自由に綴っているもので、『京ところどころ』の姉妹編です。

コンクリートの建物と赤瓦の家根とに包まれた小さな田は今稲を植ゑ付けてゐる。もう百姓じや食へへんと六十近い爺[おやぢ]はためいきついて手ばなをかんだ。コンクリートの巨躯、それは東洋一を誇る一中だ。そのバツクに比叡の英姿が泰然として聳えてゐる。(229-230ページ)

 福田は、下鴨神社の北西、下鴨芝本町に住んでいました。随筆に書かれた「一中」、すなわち京都第一中学校(現・洛北高校)の南西側です。
 
 そのエッセイに添えた挿絵が、これです。

 福田平八郎の描く比叡山(『京都新百景』より)
  福田平八郎の描く京都一中と比叡山(『京都新百景』より)

 中央に「東洋一を誇る」「コンクリートの巨躯」、一中が聳え、後ろには松ヶ崎の「妙」「法」の山、そして遠景が比叡山です。おそらく、福田の自邸から描いたものでしょう。

 いま、洛北高校から比叡山が見えるかと立ち寄ってみると、いちおう望めるのですね。
 福田が、山影を正確に写し取っていることも確かめられますね。

 比叡山
  洛北高校のフェンス越しに望む比叡山

 少し余談なのですが、比叡山は、京都盆地の北の端から見ると、山頂がちょっと右に傾いて見えるんですね。福田の絵や上の写真からも、それがうかがえます。
 
 下鴨本通と賀茂川の間や、北大路通より北の辺りは、大正後半から昭和初期にかけて、住宅地開発が進んだところで、福田が言うような「赤瓦の家根」の家が建てられそうな場所でした。福田をはじめ、池田遥邨ら画家たちも、大勢住んでいたといいます。
 一中の校舎も、昭和4年(1929)に完成したばかりで、この絵が描かれたときには、まだピカピカの新しい姿を見せていたことでしょう。
 近年建て替えられて、いまは新校舎になっています。
 

 山を切り裂く「線」

 ところが、福田が画いた比叡山には、山の中央に何やら「線」が描かれていますね。これはなんでしょうか?

  比叡山ケーブル(絵葉書)
  昭和初期の絵葉書

 実は、この写真の線が描かれているのです。
 
 ケーブルカーの軌道でした。

山の中央に縦にミシンの縫目そつくりの線が見える。それがケーブルだ。お天気のいゝ日には宅から上下するケーブルカーがよく見える。夜になると金モールのやうにまぶしい電燈の光が輝いてゐる。延暦寺のデモンストレーシヨンでもあるまい。さすがの伝教大師も地下においてくしやみの連発を……(230ページ)

 まさか伝教大師がクシャミはしないでしょうが、大正から昭和初期にかけて、生駒山、比叡山、高野山、愛宕山など、各地の山岳寺院にケーブルカーが敷設されたのです。“座ってお詣りできる”の売り言葉で、たくさんの参詣者を集めたのでした。
 八瀬と比叡山を結ぶケーブル線(現・叡山ケーブル)は、大正14年(1925)に開通しました。1.3kmあり、当時は日本最長のケーブルでした。

 『京都名勝誌』(昭和3年)には、

 されど大正十五年十二月より叡山電気鉄道開通し、京都市田中出町柳駅を起点とし、平坦部を北走すること約六哩[マイル]、愛宕郡八瀬村の南端を終点とし、更に高野川を渡り、西塔橋駅を起点とするケーブルカーを利用して、蛇ケ池遊園地下の終点に至るを得るが故に、都人士の多くはこの電車を用ひ、徒歩登攀するものは、極めて稀なるに至れり。(161-162ページ)

 と記されています。

  比叡山ケーブル(絵葉書)
  ケーブルの車両(絵葉書)

 現在では、植生の関係か地上からはケーブル線は見えないのですが、当時はよく見えたようです。

 福田が言う「文明の風」とやらに、下界も山上も変化を余儀なくされたのでした。

 それでも、樹木が生い茂ってケーブルが隠されたせいか、比叡山の姿は今も昔も余り変わらず、洛北育ちの私たちをほっとさせています。




 洛北高校

 所在 京都市左京区梅ノ木町
 見学 外観のみ
 交通 市バス洛北高校前下車、すぐ



 【参考文献】
 『京都新百景』新時代社、1930年
 『京都名勝誌』京都市役所、1928年


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コメント

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ありがとうございます

 福田平八郎画伯の記事、お読みいただき、御礼申し上げます。

 福田画伯は、洛北高校のごく近くにお住まいだったそうです。掛軸は、たいへん貴重なものと存じます。昭和2年といいますと、ブログの随筆を書かれる3年前で、35歳くらいの頃でしょうか。有名な「漣」を描かれる5年前のことになります。
 画伯の研究論文・図録などはたくさんありますので、図書館・資料館等でお調べになると、より詳しいことがお分かりになると思います。

 このたびは記事をお読みいただきましたこと、重ねて御礼申し上げます。
 今後とも、よろしくお願い申し上げます。

        「京都発!ふらっとトラベル研究所」 船越幹央
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