深草から宇治につながる八科峠は、秀吉が御香宮神社を移した地
|伏見|

本町通を南に進むと…
以前、三条大橋から伏見稲荷に到る大和大路~本町通について紹介しました。 詳しくは、こちら ⇒ <大仏餅に伏見人形、大和大路~本町通も、古きをたずねるとおもしろい>
京都市街から伏見稲荷までは、昔の感覚でいうと1里くらいでしょうか。では、本町通をそのまま南に進むと、どこに行くのか? 気になるところです。
実は、その先は宇治街道とも呼ばれる道で、峠を越えて宇治へ、さらに大和(奈良)へ続く道でした。
今回は、そのルートの入口にあたる峠道を紹介してみましょう。
スタートは藤森神社
伏見稲荷から約2km南に進むと、藤森神社に到ります。神社の中を抜けて、南参道から外に出ます。

藤森神社 南門
そこから東に向かって進み、JR藤森駅に突当ったら、右に進んで、踏切を渡ります。

JR奈良線 踏切
ここから先は住宅が立ち並び、絶えず自動車が行き交うものの、道自体は如何にも古い峠道という雰囲気を漂わせています。

貝原益軒も紹介した八科峠
この峠道が、八科峠です。「やじな」峠と読みます。
江戸前期の儒者・貝原益軒の著書に「京城勝覧」という書物があります。益軒は、各地を旅して多数の紀行文を残しています。たぶん健脚だったのだろうと、私は勝手に想像していますが、歩いた行程を丁寧に記録しています。
その経験や知識を京都ガイドに仕立てた本が「京城勝覧」です。
「京城勝覧」の特徴は、見物すべき京名所を1日ごとに紹介していることです。つまり、今日1日何里歩いたら、これこれの名所が見られる、というスタイルなのです。
その第5日は、宇治見物にあてられています。
益軒が、京から宇治へ向かう順路として紹介しているものは、ひとつは醍醐から六地蔵を経由して行くもの。いまひとつが、ここで紹介する藤森神社からスタートするコースです。
「京城勝覧」では、藤森神社を出ると、すぐに「矢島嶺[とうげ]」と記されています。これが八科峠です。
読みは、もちろん「やじま」峠ですが、「やじま」と「やじな」は相通じるものがあります。
ここで、黒川道祐「雍州府志」を見てみましょう。道祐も「矢嶋峠」と記し、その語源を説明しています。
豊臣秀吉公、伏見の城に在りし時、矢嶋氏の館舎、斯の傍らに在り。故に之れを号す。
豊臣の武将・矢島氏の館があったので、それが名の由来としています。由来譚のひとつとして考えておきましょう。
秀吉が移転させた場所、“古御香宮”
この峠を登ってゆくと、こんもりとした森が見えてきます。

左右にある石灯籠。

銘によると、天保14年(1844)に建立されたもののようです。
ここが、いわゆる「古御香(ふるごこう)宮」です。
これも江戸時代の地誌「山城名跡巡行志」には、この「古御香ノ宮」が紹介されています。
おおむね書かれていることは、次の通りです。
古御香ノ宮は、この村の北の端の東方にある。鳥居と社殿は西向きである。文禄3年(1594)、豊臣秀吉が伏見山の城を築いたとき、御香宮をこの場所に移した。その後、徳川家康が慶長8年(1603)に元の場所に戻した。今ここは御旅所となっている。古宮は、今なお残っている。(大意)
要領よくまとめてあります。
御香宮神社は、もとは伏見九郷のうちの石井村にありましたが、秀吉が伏見城を築城する際、大亀谷の八科峠に移転させられました。一説には、城の鬼門を守るためとされています。
しかし、のちに家康によって、慶長10年(1605)に現在地に戻されました(慶長8年説あり)。その後、八科峠の場所は御旅所になったのです。
実際、写真の江戸後期の灯籠にも「御香宮/御旅所」と刻されていますね。

坂道になった参道は、雰囲気があります。

今は小さな社殿のみ。
毎年10月の御香宮神幸祭では、神輿の渡御があるそうです。
峠の上には石碑が
元の道に戻り、少しずつ上って行くと、峠会館という建物を過ぎて、八科峠に到ります。

「八科峠」の石碑
この峠は、標高95m程度で、さほど高くはありません。それでも藤森神社のあたりが約35mですから、60mほど上ったことになります。
一方、ここから先(東側)は、たいそう急な坂道になっていて、六地蔵まで一気に下って行きます。

八科峠の東側。この先が急な下りになる
なお、峠の脇上には、黄檗宗の寺院・仏国寺があります。このお寺については、またの機会に紹介できればと思っています。
八科峠は、現在ではその名を忘れられた存在ですが、自動車の往来は激しく、今なお峠の役割を果たしているように見えます。
八科峠
所在 京都市伏見区深草大亀谷
見学 古御香宮とも自由
交通 JR藤森下車、徒歩約15分
【参考文献】
『京都叢書』各巻、1915年
『雍州府志』岩波文庫、2002年
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