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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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【新聞から】祇園祭の山鉾巡行に「後祭」が復活





 後祭山鉾は「逆回り」 祇園祭、49年ぶり巡行2日間
 京都 2013年8月27日付



  祇園祭  狭い通りを行く岩戸山

 2010年から議論され始め、今年の山鉾巡行の頃には“いよいよ来年から復活か”と言われていた祇園祭の「後祭(あとのまつり)」。
 ついに来年から復活することが、8月末にも決定されるそうです。
 私も後祭は見たことがなく、これは楽しみですね。

 【前祭と後祭】
 祇園祭の山鉾巡行の歴史を簡単に振り返っておくと、江戸時代までは旧暦の6月7日と14日に巡行が行われていました。明治維新後、太陽暦が採用されると、明治10年(1877)から、7月17日と24日に行われるようになりました。7月17日の巡行を「前祭(さきのまつり)」、24日のものを「後祭(あとのまつり)」と呼びます。

 2日に分けて行われるのは、祇園社(八坂神社)の神輿の渡御と還御にあわせて行われるためです。
 現在では、八坂神社から御旅所へ向かう神幸祭に先立って、午前中に山鉾巡行が行われていますが、かつては、これに加え、御旅所から神社へ戻る還幸祭の日にも、午前に山鉾の巡行が行われていたのです。

 前祭には、長刀鉾をはじめ、函谷鉾、占出山、鶏鉾、放下鉾、船鉾などが参加し、後祭には、橋弁慶山、黒主山、鈴鹿山などが参加しました。おおむね蛸薬師通を境界として、以南の山鉾が前祭に、以北の山鉾が後祭に加わっていたのです。

  戦前の祇園祭(『日本地理大系』より)
  戦前の「前祭」巡行(『京都』より)

 前祭と後祭からなる山鉾巡行は、太平洋戦争による中断を挟みながら、戦後まで続いていました。しかし、昭和41年(1966)、交通事情の変化などを理由に後祭を取りやめ、7月17日の巡行に一本化されたのです。ちなみに、24日には、後祭に代わって花傘巡行が行われるようになりました。

 祇園祭山鉾連合会の吉田孝次郎理事長は、神輿が渡御する神幸祭と還幸祭の前に山鉾巡行があった姿を重視し、「神と我々の山鉾風流が不即不離の関係で行うのが祭りの姿だった」(「月刊京都」7月号)と山鉾巡行の趣旨を語っています。

 【巡行コースの変遷】
 ここで問題となるのが、後祭の巡行ルートです。

 現在の7月17日の巡行は<四条烏丸-四条河原町-河原町御池-烏丸御池>というコースを取っています。しかしこれは、昭和36年(1961)以降のもので、河原町通や御池通を通るという極めて現代的なコースといえます。

 かつて、巡行コースは全く異なっていました。昭和30年(1955)まで、前祭は<四条烏丸-四条寺町-松原寺町-烏丸松原>というコースを通っていました。つまり、四条通を右折して寺町通に入って南下し、3筋南の松原通を西行するというものです。

 巡行コースの変遷(『ドキュメント祇園祭』より)
  巡行コースの変遷(米山俊直編著『ドキュメント祇園祭』より)

 しかしながら、松原通は大変狭い通りで、ここを山鉾が巡行することは家屋への接触など問題をはらんでいました。そのため、変更の議論が起こったのです。その際、八坂神社は「信仰の由来をおろそかにしないことが最も大切なことで、時代がかわったからといって、勝手な解釈で祭の巡行形態を変えてもらっては困る」と強く反対したそうです(『ドキュメント祇園祭』)。この八坂神社の立場は、昭和41年の巡行一本化の際も主張されたことでした。

 紆余曲折の末、昭和31年(1956)より、四条通から寺町通を北上し、御池通を西に進むコースに変更されました。これは5年間続きます。この変更に伴って、広い御池通には有料観覧席が設けられました。米山俊直氏らは、「祇園祭が現在のように観光ショーとしての色合いを濃くしてゆく第一歩であった」とされています。『ドキュメント祇園祭』を読むと、昭和30年代、祇園祭は<信仰か観光か>が盛んに議論されたという記述が何度も出てきます。
 かつての巡行のコースについて改めて考えてみると、前祭は四条通から松原通へとぐるっと回るコースを取っています。これは、鉾町の分布と重なっていて、鉾町の南限が松原通までだからです。一方、後祭のコースが四条通から三条通をめぐっていくコースなのは、鉾町の北限が三条通北側までだからです。そして、四条通を寺町通まで進行して南下または北上するのは、四条寺町に御旅所があるからでしょう。こう考えると、巡行コースの設定には、神事や地域にとっての合理的な理由があったのです。

 米山俊直『祇園祭』には、たいへん的を射た指摘があります。

 祇園祭の山鉾巡行のコースが、まださきのまつりが四条烏丸から寺町に来て右折し、寺町通を南下して松原通に達し、松原通を西にとって東洞院[注・ひがしのとういん。南北の通り名]で解散していた頃は、寺町通や松原通の祭への参加の仕方はおのずから別のものだったにちがいない。
 昭和31年(1956)のコース変更以後、八坂神社の氏子区域でもその南部では、やはりかなりの変動があったと考えられる。それは、巡行が来なくなった、という物理的な出来事以上に、その地域の人々の心に何かを与えたにちがいない。(『祇園祭』115-116ページ)


 米山氏は「人々の心に何かを与えた」と表現されていますが、それはもちろん“何かを奪った”という意味です。たかがコース、されどコースということが、やはりあるのです。

 昭和36年(1961)、松原通と同様に、道幅の狭い寺町通は回避され、河原町通を北上するコースとなりました。これが、現在まで続いています。

 戦後の祇園祭(『日本地理風俗大系』より)
  四条寺町を曲がる船鉾
 (昭和30年代前半頃、『日本地理風俗大系 7』より)

 この写真は、寺町通に入って行く船鉾を捉えたものですが、いかにも窮屈そうに曲がっています。寺町通変更論が出るわけです。

 このように、一見伝統があると思われる巡行コースも、激しく変化してきたのです。

 上記は前祭のコースでした。
 では、後祭のコースはどうだったかというと、烏丸三条から三条通を東行し、寺町通りを右折して南下、四条寺町から四条通を西行するコースでした。つまり、前祭が<反時計回り>だとすれば、後祭は<時計回り>というわけです。

 【今後は?】
 京都新聞によると、今回復活する後祭のコースは、<烏丸御池-河原町御池-四条河原町-四条烏丸>となるそうです。つまり、現在のコースの完全な<逆回り>です。
 けれども但し書きがついていて、数年後をメドに旧来のコース復活を目指す、とされています。もちろん寺町通はアーケード街なので、そこを通れるか? という大問題もあります。ただ関係者は、一部だけでも三条通を通るなど、かつての形を理想形として検討していくようです。
 
 祇園祭に限らず、祭礼の形は時代に応じて変化するのがふつうです。長い歳月を生き延びていくためには、必ずしも伝統を墨守する必要もないと思いますが、祭礼の意味、信仰の尊さを見失わないようにすることは大切でしょう。
 その点から、今回の後祭復活は、祇園祭の意味を改めて伝え直す格好の機会になるのではないでしょうか。

 来年、前祭23基と、後祭に復活する大船鉾を含む10基の巡行が見られるかと思うと、今から楽しみです。




 【参考文献】
 米山俊直『祇園祭』中公新書、1974年
 米山俊直編著『ドキュメント祇園祭』NHKブックス、1986年
 『日本地理大系 7 近畿篇』改造社、1929年
 『京都』京都市役所、1929年
 『日本地理風俗大系 7 近畿地方(上)』誠文堂新光社、1959年
 「月刊京都」2013年7月号(特集・祇園祭の担い手たち)


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