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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS朝日「京都ぶらり歴史探訪」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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先斗町歌舞練場、狭斜の巷にそびえるアジア的な造形に見惚れる





先斗町歌舞練場


 昭和初期に完成した歌舞練場

 前回ご紹介したように、明治5年(1872)、裏寺町の狭い寄席から端を発した鴨川踊りは、幾度かの移転や改築を経て、大正末、新たな段階を迎えます。

 大正14年(1925)、春の鴨川踊りを終えた後、先斗町で敷地を買収し、歌舞練場の新築を試みたのでした。370坪余りの敷地に、間口20間4分(約36.7m)×奥行15間(約27m)、建坪約296坪、延床面積約1,201坪(約3,965㎡)の建物を完成させました。昭和2年(1927)3月のことです。
 ちなみに、その2年後に完成した南座と比較すると、同じく地上4階・地下1階建ですが、建坪約543坪、延床面積約1,972坪ですので、南座が約1.6倍の床面積を持っていることになります。

 先斗町歌舞練場は、関東大震災後の建築ですので、耐震耐火の鉄筋コンクリート造を採用しています。
 内部は、1階には舞台と観覧席、待合室などを設け、2階には特等観覧席、3階には一等休憩室や点茶室などがあり、最上階は特等休憩室と点茶室、それに加えて展望室がありました。地下には、食堂のほか、炊事場や電気室が置かれています。

 先斗町歌舞練場(『京都』より)
  広い間口を持つ舞台(『京都』より)

 舞台の間口(幅)は、75尺(=12.5間)といいますから約22.5m。方角は、東(鴨川の方)を向いています。
 この間口は、東京の歌舞伎座(1924年竣工)の15間には及ばないものの、南座よりは広いですし、戦後の東京・国立劇場と同等の幅になっています。かなり頑張った間口で、関係者の意気込みが伝わってきます。平面プランの工夫として、南北に長い敷地を活かすため、舞台とエントランスが南北に並列する形にしています。つまり、エントランスに入って、左側に舞台と客席があるという形。南座のように、エントランス→客席→舞台と南北に並ぶ平面ではありません。狭い敷地ならではの工夫といえるでしょう。
 ちなみに、舞台の奥行は浅く37尺(約11m)で、舞台の裏の扉を開けると、直接先斗町の通りになるという、驚きの構造です。

  先斗町歌舞練場 先斗町歌舞練場
  先斗町の通りに面した搬入口。このドアの中が舞台になる


 工費は100万円?

 舞台の大きさが関係者の意欲を示していると言いましたが、そのひとり寺井徹郎の言を引いておきましょう。

 この精神が動機となつて殊に東に都踊り、西に鴨川踊りありと謳はれた五十年の歴史を有する春のヲドリをして益々向上発展世界的にする必要に迫られ、一大決心をもつて百万の大資金を投じて現在の歌舞練場を建築したのである。
 私等の理想からいへばまだまだ大規模のものを考へたけれど地域に限りがあると建築法に制限されて遺憾ながら現在のものが世に出た訳である。(「先斗町」、『京都新百景』1930年所収)


 この百万円という数字は他の書物にも見えます。正確な額ではないかも知れませんが、おおむね百万円なのでしょう。
 ちなみに、大正7年(1918)竣工の大阪市中央公会堂の建設費も百万円でした。大正末頃の小学校教員の初任給が50円程度ですから、単純に換算できませんが、今の感覚で数十億円に相当するでしょう。一花街が出す金額としては驚異的とも言えます。


 劇場建築家・木村得三郎の設計
 
 この建物は、数々の劇場建築を手掛けた大林組・木村得三郎が設計しました。木村は、大阪の松竹座、東京劇場、京都の弥栄会館などを設計した名手。弥栄会館については、こちらをご覧ください。 ⇒ <屋根のラインが美しい弥栄会館は、名手・木村得三郎の力作>

  大阪松竹座
  木村得三郎が設計した大阪松竹座(1923年)

 さて、先斗町歌舞練場ですが、まず鴨川側(東側)の外観を見てみましょう。
 三条大橋を渡って鴨川左岸から見ることができます。

 先斗町歌舞練場

 左右非対称ですが、右手に舞台と客席、左手にエントランスや待合室が置かれています。
 
 ところが、これも当初のままではなく、右側部分が増築されているのです。
 こちらが、竣工後の写真。

 先斗町歌舞練場(『京都名勝誌』より)
  竣工まもない先斗町歌舞練場(『京都名勝誌』より)

 先斗町歌舞練場
  現状

 「鴨川をどり」の文字看板が取り付けられた部分が、川側に出っ張るように増築されています。
 窓の雰囲気が変わって、デザイン上のインパクトは減少していますね。

 先斗町歌舞練場

 左側の2・3階の三連窓と八角窓など、いい感じですね。

 先斗町歌舞練場

 窓と窓の間には、テラコッタを用いています。
 壁面のベースは、スクラッチタイルです。

 先斗町歌舞練場
  北端の窓

 六葉のような飾り金具も素敵でしょう。中心にフックが付いています。

 先斗町歌舞練場


 狭い通りに広がる雄大なデザイン

 次に、先斗町の側を見ていきます。

 先斗町歌舞練場

 先斗町歌舞練場
  玄関

 南側に開き戸が2つ付いています。比較的こじんまりとした玄関ですね。

 先斗町歌舞練場

 スクラッチタイルです。細長いフォルムになっています。

 先斗町歌舞練場

 こちら側の壁面に多用されるテラコッタ。花卉文と無地とが交互に貼られています。

 先斗町歌舞練場

 舞台への搬入戸の上部。竜山石に幾何学文様を刻んでいます。

 先斗町歌舞練場

 そして、鬼瓦は蘭陵王をモチーフにしています。


 「東洋趣味」の建築

 ここまで見て来て、全体に“土”の色彩と香りがするというか、黄土色っぽいアジアの大陸をイメージさせる造形が濃厚です。

 その典型は壁面から屋根にかけてでしょう。

 先斗町歌舞練場

 茶褐色のスクラッチタイルを貼りつめた壁面と、随所に用いられる黄土色の柔らかな竜山石。
 そして緑色に鈍く光る菊文をあしらった丸瓦と六角瓦のライン。直線的な屋根のラインは、後に設計する祇園・弥栄会館に引き継がれます。
 竣工時、この建物は「やゝ質素なる東洋趣味の近代式洋館」(『京都名勝誌』)などと形容されました。

 この「東洋趣味」的なデザインは、木村と同じ大阪で活躍した建築家・安井武雄との相同性を感じさせます。

 高麗橋野村ビル
  安井武雄・高麗橋野村ビル(1927年)
 
 奇しくも同じ昭和2年(1927)に完成した高麗橋野村ビル(大阪市中央区)は、黄土色の外壁や水平な軒瓦のライン、細部のテラコッタへのこだわりなど、先斗町歌舞練場との共通性を持っています。
 安井には、これより先、大阪倶楽部(1924年)という佳品があり、壁面こそスクラッチタイルではないものの類似の色彩を持ち、竜山石の使い方など「東洋風」の作品となっています。

 木村と安井の影響関係はよく分かりませんが、同時代のデザイン感覚として留意しておきたいと思います。

 いずれにせよ、道幅3mほどの先斗町に、このスケールの歌舞練場を建設するという途方もないプランに言葉を失います。
 この建物が好きな私は、三条大橋から河原町に抜ける時、わざわざこの前を通っていくのですが、あの壁面の迫力にいつも圧倒されるのでした。木村得三郎は「劇場建築の名手」と言われますが、その一言では済まない、デザインに対する執着と個の強さを感じさせるのです。


  先斗町歌舞練場




 先斗町歌舞練場

 所在 京都市中京区先斗町三条下る
 見学 外観自由 内部は鴨川をどり等の開催時のみ
 交通 京阪電車「三条」から、徒歩約5分



 【参考文献】
 『京都名勝誌』京都市、1928年
 『京都』京都市、1929年
 『京都新百景』新時代社、1930年
 石田潤一郎『関西の近代建築』中央公論美術出版、1996年
 山口廣ほか『近代建築再建 下巻』エクスナレッジ、2002年
 『新築南座観劇手引草』松竹土地建物興行、1929年


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