10 | 2017/11 | 12
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -
MENU

NEW ARRIVAL

PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

花街・先斗町、鴨川をどりと歌舞練場





鴨川踊り(『京都』より)


 五花街のひとつ、先斗町

 今回は、私の好きな名建築のひとつ、先斗町歌舞練場をご紹介しようと思うのですが、その前に花街・先斗町の歴史を紹介しなくてはなりません。

 現在の京都の花街は、祇園甲部、祇園東、宮川町、先斗町、上七軒からなっており、祇園甲部と東、宮川町は鴨川の東、先斗町は川の西、上七軒は北野(天満宮の東)にあります。

 鴨川の右岸に沿って南北に細長い先斗町(ぽんとちょう)。花街としても観光名所としても名高いのですが、私は専ら四条通、河原町通の混雑を避けるための“迂回路”として通ることが多いでしょうか。夜の風情が知られますが、朝はやく、寝起きのような通りもまた素敵です。 
 その先斗町、「ぽんと」という変わった地名の語源が取り沙汰されるのですが、今回そのあたりは別の資料に任せて、町の由来から見ていきましょう。

  先斗町歌舞練場

 「京都先斗町遊廓記録」や「京都府下遊廓由緒」によると、先斗町の成立は、寛文10年(1670)、鴨川の石垣などの整備が行われた時点にさかのぼります。その4年後、初めて5軒の家が建ったといいますから、それまでは鴨川べりの人家もない河原だったのでしょう。
 先斗町という名も案外古いらしく、元禄頃(1688-1704)の史料にもその名が見えるそうです。一方で「新川原(河原)町通」という名称もありました(これは近代になっても使われています)。
 正徳2年(1712)になって、生洲株が認められ茶屋や旅籠が営まれ、茶立女が置かれたといいます。これが花街・先斗町の公式なスタートと言ってよいでしょう。

 先斗町の範囲ですが、北から見て、三条大橋の西詰にある瑞泉寺南側の道、ここをカギの手に曲がって、橋下町、若松町、梅木町、松本町、柏屋町と続き、四条通の南の斎藤町に到ります。最初のカギの手に曲がる道は、現在は木屋町通に抜けていますが、昔は突当りでした。


 鴨川をどりの始まり

 先斗町歌舞練場(『京都』より)
  昭和初期の鴨川踊り(『京都』より)

 「鴨川をどり」の始まりは「都をどり」と同じで、明治5年(1872)に開催された京都博覧会の付属イベント(附博覧=つけはくらん)としてでした。
 この附博覧の踊りは、従来の座敷での舞ではない「総踊り」として新たに創案されたスタイルで、今日まで続いているものです。
 都踊りは祇園の林下町(祇園新橋)の松の家で行われたのですが、鴨川踊りの方は裏寺町の大竜寺付近の烏須沙摩図子(うすさまずし)にあった千代の家で開催されました。
 図子=辻子は路地のことで、この図子は現在の四条河原町交差点の北西角にあるみずほ銀行の左脇を入って行くあたりになるようです。
 このときは、会場も狭かったため、踊子12名、地方(じかた)7名、小鼓2名、大鼓1名、太鼓2名で、「都の賑ひ」という唄を作って行ったと、「京都先斗町遊廓記録」は記しています。


 一旦中止になったことも…

 先斗町歌舞練場(『京都』より)
  昭和初期の茶席のようす。立礼により行っている(『京都』より)

 好評をもって迎えられた鴨川踊り。会場であった烏須沙摩図子の千代の家も、明治8年(1875)、改築され、舞台や花道が修理されました。
 その後、明治10年代には出演する芸妓の数も50名規模となり隆盛を迎えましたが、景気の低迷により、明治16年(1883)をもって一旦中止となりました。

 明治24年(1891)からしばらくは、年に3日くらい温習会を開催していましたが、明治28年(1895)、平安遷都1100年の記念祭が挙行されるに当たり、先斗町に歌舞練場を新築し、鴨川踊りが復活します。
 さらに、明治35年(1902)、この年は菅公千年祭(菅原道真の没後1000年)が執り行われるということで、多くの観光客が見込まれました。そこで、先斗町でも歌舞練場を改築することとし、前年の鴨川踊り終了後、秋の温習会を中止して突貫工事を行いました。明治35年2月、建物を落成し、例年より早く4月1日から20日まで鴨川踊りを開催しました。
 

 昭和初期の先斗町と芸妓

 先斗町の夕(『全国花街めぐり』より)
 「夏宵価千金 先斗町の夕」(『全国花街めぐり』より)


 戦前の花街のことを知る時は、まず松川二郎『全国花街めぐり』(1928年)を繙いてみます。もちろん、先斗町も取り上げられています。

 私は実は祇園の方は深く知らない、京都で遊んだといふは主に先斗町だつたからである。京のあそびは祇園に止めを刺すことは言ふ迄もなく、先斗町では決して本当の京の花街情調は味へるものでない、が、是れは誰でもいふ所だが祇園の芸妓は取付きがわるい、馴染の妓でもあるか、行つけの友達と一緒にでも行けば面白いけれど、旅の客なぞがたとへ一流の旅館から紹介させて行つて、一流の茶屋で、一流の美人を招んで遊んで見たところで、一向何の変哲もない。きちんとお手々を膝に置いて、人形然と座つて居るばかりである。老妓となれば流石にさうでもないが、そして近来大分此の妓風は脱けて来てはゐるが……。
 その点にゆくと先斗町は初会から親しみ易く、気分が何程か東京風を帯びてゐる。芸妓ばかりでなく、仲居も、女将も、花街全体がさうしたカラアの処である。それは全たく、川一筋でかうも気分が異なるかと不思議に感ぜられる位だ。少し浮ツ調子で安直な代り、それだけ現代的といふか、兎に角東京者には最初はこゝが遊びいゝ。
 こゝには娼妓は居ない、純然たる町芸妓風で、踊りも祇園とはちがつて此処は若柳である。それに又花街そのものが小さく、小ぢんまりとして居ることなども、遊びよい一つの原因ではないかと考へる。(497-498ページ)


 全国の花街をめぐった松川二郎の体験的評価です。先斗町のこじんまりとした親しみやすさが好意的に受け入れられています。

  先斗町の芸妓・吉枝(『全国花街めぐり』より)
  芸妓・吉枝(『全国花街めぐり』より)

 松川によると、先斗町を代表する芸妓には、湯口吉枝、長谷川卯の子、中川市龍、高野市彌、三上喜久彌、浅田市代らがいます。いずれも舞踊に秀で、常磐津や太鼓などの得意があり、点茶にも通じているといいます。
 上の写真の吉枝さんは、容色の面で松川が押す一人。面長でどちらかといえば「東京タイプ」だそうですが、「実は京美人系にも此の面長の一派がある」と指摘しています。

 此型の顔には、所謂京美人特有の夢見るやうな仇つぽさはないが、その代り受唇、出目等の欠点から免がれて居る。京美人の標準タイプとは言へないが、兎に角、京美人にも二系統あることを一言しておきたい。(501ページ)

 なかなか、こだわりますね。
 あまり美人写真を載せるのも何なので控えますが、『全国花街めぐり』をみると、土地や花街によって「美人」のタイプがまちまちなのに気付かされ、興味深いです。
 
 昭和3年(1929)の昭和天皇即位礼(「御大典」)のあった年、4月10日から開催された鴨川踊りでは、上記の綺麗どころ、吉枝、卯の子らが女神に扮して「平和の国」を踊り、また山岸荷葉の新作「春の光」は場面転換のある段替し(八段)で壮麗に上演されました。
 その舞台となったのは、新装まもなかった先斗町歌舞練場、すなわち現在の建物でした。
 
 次回は、この歌舞練場について、ご紹介しましょう。


  先斗町




 先斗町

 所在 京都市中京区橋下町、若松町ほか
 見学 自由
 交通 京阪電車「三条」または「祇園四条」から、徒歩約5分



 【参考文献】
 「京都先斗町遊廓記録」1928年(『新撰京都叢書 9』所収)
 「京都府下遊廓由緒」1872年(同上所収)
 松川二郎『全国花街めぐり』誠文堂、1929年
 『京都名勝誌』京都市、1928年
 『京都』京都市、1929年
 

スポンサーサイト

コメント

非公開コメント