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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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社会に対する強い「信頼」が生んだ学問 - 森浩一先生を悼む -

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 寝苦しい8月6日の夜、私の夢もまた取り留めのない内容の羅列だったが、そのひとこまに森浩一先生が出て来た。先生は、遺跡とすら言えないような崖下の小さなほら穴に身体を横たえて入って行かれる--そんなワンシーンだった。

 その日の晩、先生は85年の人生を終えられ、長い旅に発たれていた。

 2013年8月10日の朝刊各紙は、考古学者・森浩一先生の訃報を伝え、私も朝、その記事を目にした。
 改めて、森先生の学問とは何だったかを考えた。それは、いつも繰り返し考えてきたことだったけれど、やはりまた考え直さずにはいられない問いだった。

 私が学生だった1980年代、50歳代だった先生は意欲的に全国の遺跡を巡られていた。
 毎週の授業では、その週末に訪れた遺跡の話などをされるのが常で、同じことは新聞やテレビでも発言されていた。また、交流した内外の学者たちと語り合った話題も、私たちに披露された。
 そのような日々の活動は、『考古学西から東から』(1981年)、「アサヒグラフ」の連載(1988-89年、『交錯の日本史』として刊行)などの著述となった。『考古学西から東から』について先生は、「“西から”でないとあかん」と言っておられたような気がするが、それは首都・東京=東を中心とするモノの見方に対するアンチテーゼの表れだったといえる。

 京都新聞も紹介していたが、その後のモットーは「考古学は地域に勇気を与える学問」だった。
 けれども私は、その点をもう少し敷衍して考えている。

 森浩一という学者の基本的なスタンスは、学問は社会と接点を持つ、ということだった。
 裏を返せば、象牙の塔に閉じこもる専門家はダメである、ということだ。なぜダメかといえば、専門家だけで“サークル”を作って研究活動している人たちは、一般人は難しいことを言っても分からんだろう、と高をくくっているからだ。
 先生は、「いま“考古学ブーム”というけれども、一過性のブームとは違う。昔から知的レベルが高くて関心を持っていたのだ」と言っておられた。先生自身が社会に接する際、この社会の知的レベルは高いのだ、という前提が根っこにあった。このことが、市民に広く考古学を普及する活動につながっていた。

 その考えがよく表れた編著として『考古学の先覚者たち』(1985年)がある。主に江戸時代の各地の民間学者を紹介した書物で、先生の著作中で私が好きな一冊だ。

 考古学の先覚者たち

 少し長くなるが、その総説「土の中の思想家たち」から引用しておきたい。

 私はかつて江戸時代の広義の考古学の研究者にたいして“町人学者”というよび方をした。(中略)このような伝統は明治・大正・昭和と学問の底流として横たわっていたが、昭和三十年代後半からは急速に影をひそめ、考古学は変貌してしまった。(中略)
 “町人学者”を支えていたものについて、それぞれの身分・職業・境遇などで一概に論じることはできないけれども、日本人の知的関心の層の厚さを見落としてはいけない。今日も大阪府藤井寺市の修羅の出土地や奈良県高取町の束明神古墳、あるいは群馬県高崎市の日高水田遺跡などの発掘の現地説明会(略して現説)には一万人前後の人たちが集まったし、ごく普通の発掘の現地説明会をひらくと数百の人たちが集まるのは日常的なことになってきた。それらの人たちを冷やかに、野次馬的な集団だとか、専門研究の進行をさまたげるなどという見当違いの批判が一部にあるのは真に遺憾なことだが、それはさておき考古学に関心をもつ人たちの層の厚さは、日本人のたゆまざる知的好奇心のあらわれだと私は評価している。


 これに続けて、E・モースの講演会に大勢の聴衆が集まってモースを驚かせたことや、「東京人類学雑誌」に弱冠17歳の浜田耕作が論文を寄せたことなどをあげて、町人学者の創造的な学問の基盤に、裾野に広がる人々の層の厚さを指摘している。
 この引用文には、実に端的に先生の思いが現れていると思う。

 分かりやすく語れば誰でも分かる。分かってくれば自ら学ぶようになる。社会の誰もが、学問を自らの手に入れ、自分の頭で考え、自分の言葉で語る--おそらく、それが森先生の考えていたあり得べき社会の姿だったと私は思う。
 そうでなければ、あれだけ新聞やテレビで発言し、全国で講演し語り続けた精力的な活動を理解することができない。

 20年余り前、就職が決まった私は、森先生にその報告をしに行った。そのとき先生が言われたのは、社会に出るのはええこっちゃ、というものだった。
 象牙の塔に閉じこもる研究者の態度に、苦虫を噛み潰していたのだった。

 社会ってなんだろうか。

 たぶん森浩一の目に映っていた社会は、種を播けば、目が出、花が咲き、結実する、肥沃な土壌だったに違いない。その土壌を耕し種を播く活動を日々行っていた。メディアで発言するのも、学生に語りかけトレーニングさせるのも、その根底は同じだった。
 そこには、社会に対する強い「信頼」があったのだと、私は思う。それは、人に対する信頼と言い換えてもいいかも知れない。社会を信頼していなければ、その可能性を信じていなければ、耕し種を播くことはできないはずだから。

 先生が「官」嫌いだったということはよく言われる。それはたぶん、官というものが民をバカにし、上意下達で物事を行おうとすることへの憤りだったのだろう。しかし、それは官嫌いというよりも、「民」を信じるという立場の裏返しだった。民を信じるからこそ、民をバカにする官が許せないのだ。
 そして、その「民」とは、“ミン”であると同時に“タミ”なのだ。社会を構成している民(タミ)を信頼するという思想が、森浩一の根本にあったと思えてならない。

 最近、世の中で生きることは「泥」の中で生きることだと達観しかけていた私だったが、今日改めて森先生のことを思い出して、これからは、社会は「泥」ではなく「豊饒な土壌」だと思うことにしよう、と考え直した。その方が、先生から受けた教え--学問は社会と接点を持つ--に叶う捉え方だと思うからだ。

 もう先生の話を聞く機会がないと思うと少しさびしいけれど、人は死んだら終わりになるというわけでもない。これからも折に触れて懐かしい事どもを思い返しながら、森先生と共に過ごしていきたいと思う。

 森浩一先生のサイン
 『僕は考古学に鍛えられた』(1998年)に
  あつかましくもいただいたサイン


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