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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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めやみ地蔵は “雨止み” 地蔵

洛東




めやみ地蔵


 四条通の目疾地蔵

 鴨川の東、四条大和大路を東に入ったところに、目疾地蔵という小さな寺があります。

 めやみ地蔵   めやみ地蔵

 「目疾」と書いて、「めやみ」と読ませています。門前の標石は仮名書きです。「めやみ地蔵尊」とありますが、寺名は提灯にもあるように、仲源寺という浄土宗の寺院です。

めやみ地蔵

めやみ地蔵

 四条通に門を開き、本堂も北向き。狭い境内ですが、眼病平癒に霊験あらたかということで、参詣者が絶えません。

 江戸時代の「都名所図会」巻2(1780年)には、次のように記されています。

 仲源寺ハ四条大和大路の巽の角にあり。浄土宗にして智恩院に属す。本尊地蔵菩薩ハ土中出現の尊像なり。[一説にハ定朝の作なりとぞ] 世の人、目疾地蔵と称す。病気平癒の祈願をすれバ霊験あり。実ハ雨止地蔵也。往来の人、驟雨の時、此堂に宿りしと也。

 本尊の地蔵菩薩は、土の中から出現し「目疾地蔵」と呼ぶけれど、本当は雨宿りする「雨止み地蔵」なのだと、端的に記しています。

めやみ地蔵   めやみ地蔵
 「都名所図会」より「仲源寺」。提灯には「目疾地蔵尊」とある

 ところで、この項に続く「宮川」の項は、目疾地蔵と関係したことを記しています。

 宮川といふは鴨川四条より南の別号なり。むかし此辺に禹王の廟あり。[洪水を鎮給ふ神也] 後世人家建続て町の名となれり。

 昔このあたりに、洪水を鎮める神「禹王(うおう)」の廟所があったが、のちに家が建て込んで町名になった、と述べています。花街「宮川町」にその名を残していますね。


 いにしえの洪水伝説

 「都名所図会」に記された「禹王」とは、中国の最初の伝説的王朝「夏(か)」の始祖・禹のことです。禹は、黄河の治水をなした徳の高い王として史書に伝えられています。それゆえ、洪水を鎮める存在として、鴨川のそばに祀られたというのです。

 「雍州府志」(1686年)は、さらに詳しく、まったく違った話を載せています(以下、要約)。

 この寺は、もとは四条東北の田の間にあった。そのため「畔(くろ)の地蔵」と呼ばれていた。
 寺伝では、後堀河院の安貞2年(1228)秋8月、大風雨のため鴨川は洪水になった。勢多の判官・中原為兼に命じて、これを防がすことにした。

 そのうち為兼は、異形の僧侶に出会った。僧の言うには、「この洪水は人力では防げない。この川の北に弁財天を勧請して、南に禹廟を建立して祀れば、水はたちどころに乾く」と。僧は言い終えたと思うと姿が見えず、為兼は、これは地蔵菩薩が現れたのだ、と思った。

 僧の言う通りにすると、水は果たして枯れた。
 そののち、弁財天と禹廟は廃れてしまって、今どうなったか分からない。弁財天は、かつて大和橋の北の木の下にあったけれど、今は堤の上はことごとく家が建ってしまい、その木もなくなった。禹廟は、五条松原通の鴨川の東にあったという。

 ところで、縁起によると、かつて錦小路に宗円というものがいた。常に、この地蔵を信心していたが、ある時、目を患ったので地蔵にお祈りをした。夢の中で地蔵が告げるには、おまえに代わって私が目を患おう、と言う。
 目が覚めると、眼病は治っていた。さっそく地蔵にお詣りして謝意を表すると、地蔵の両目はよくわからないさまになっていた。宗円は大いに驚き、感嘆した。
 これより、世人は「目疾の地蔵」と呼んだ。


 前段は、鎌倉時代に起きた洪水の話を引き、防鴨河使(ぼうかし)に任じられた中原為兼が、地蔵菩薩のお告げに従って、弁財天と禹廟を祀ると、たちどころに洪水は治まった、という伝説を紹介します。
 後段は、この地蔵が「目疾地蔵」と呼ばれるようになった由来譚で、いわゆる身代わり地蔵の話になっています。
 
 ここでも、水にゆかりの弁財天とともに、中国・夏の禹を引き合いに出しているところが興味深いです。
 「都名所図会」は、往来の人々の雨宿りの場所として「雨止み地蔵」と呼ばれたとするのですが、「雍州府志」の話は、一層奥深い由来を述べていることになります。
 ちなみに「花洛名勝図会」巻1には、この地蔵堂の西辻の角にあった神明社は、一説には「禹王社」だったと記しています。

 めやみ地蔵
 目疾地蔵(「都名所図会」より)

 このようにみてくると、目疾地蔵は治水の信仰と関係あったことが分かってきます。現在地に移ったのは、豊臣秀吉による天正13年(1585)のことですが、鴨川左岸にあって洪水と不可分であったことは疑いないでしょう。
 実際、禹廟がどこかにあったか定かではありませんが、そのような伝説がいつ頃までさかのぼるかも興味のわくところですね。


  めやみ地蔵




 仲源寺(目疾地蔵)

 所在 京都市東山区祇園町南側
 拝観 境内自由
 交通 京阪電車祇園四条下車、徒歩約3分



 【参考文献】
 「雍州府志」1686年(岩波文庫版)
 「都名所図会」1780年
 「花洛名勝図会」1864年


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