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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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絵馬堂が意外におもしろい!(2) - 北野天満宮 -






北野天満宮絵馬


 大きな絵馬堂

 絵馬堂の規模はさまざまですが、時折とても大きなものに出会います。たとえば、八坂神社の絵馬堂。

八坂神社

 桁行七間、梁間二間、入母屋造の長い建物です。外には大ぶりの絵馬が多数掛けてあるのが見えますが、中は柵があり入れません。建築は、見た感じは江戸時代のものと思われ、「京都御役所向大概覚書」にも、正保3年(1646)の社殿等修復の時には絵馬堂はなかったようですから、それ以後に建てたと考えられます。
 絵馬は著名な絵師の描いたものが多数奉納されているといいます。池大雅「蘭亭園」、海北友松「仁田忠常斬猪」、狩野探幽「梶原花箙」、そして元禄4年(1691)に長谷川鄰完が奉納した算額(重要文化財)などがあります。

 八坂神社と同じくらいの規模の絵馬堂が、これです。

北野天満宮

 北野天満宮絵馬所。
 こちらは、いつ建てたかはっきり分かっていて、元禄13年(1700)から14年(1701)に行われた天満宮の修理の際の建物です。「京都御役所向大概覚書」にも、「絵馬掛所 桁行拾間/梁ま三間」とあります。ここの間数は実際の長さで、約18m×5.4mということになります。ちなみに、柱間でいうと、桁行六間、梁間二間です(のちに西南部分を増築しています)。
 「都名所図会」(1780)にも「絵馬堂」として登場していて、現在地よりも中門(三光門)寄り西側の位置に、南北に長く建てられていました。のちに移築されたのですね。

 この絵馬所が完成する前にも、先代の絵馬所がありました。天満宮の記録によると、元禄11年(1698)に御文庫・絵馬堂・愛染堂の修理が計画されましたが、絵馬堂の修理だけは認められませんでした(『北野天満宮史料 宮仕記録 続二』元禄11年3月6日条)。そして、元禄14年(1701)4月の「宮仕(みやじ)記録」によると、「このたび『掛所』を新造するので、正殿[本殿]はもちろん末社・諸堂にも絵馬を掛けることは禁じる」と定められたといいます。
 天満宮の記録を読んでいると、現在の絵馬所ができるまでは、結構本殿などにも絵馬を奉納していたことがわかります。それを新絵馬所に集約したわけですね。


 何の絵馬だろう?

北野天満宮

北野天満宮

 内外には、多くの絵馬が掲げられています。私の母方はこの近所なのですが、親戚の名前が大勢書かれている絵馬もあって、思わず微笑みます。大きな額もかなりありますね。
 これらのうち、慶長13年(1608)に制作された長谷川等伯筆「昌俊弁慶相騎図」(重要文化財)などの絵馬は、宝物殿で保管されています。

北野天満宮

 これは源平の合戦を描いたものらしく、社僧である宮仕の能悦が奉納したもの。野々村信武(通正)により元禄4年(1691)11月に描かれたと記されています。
 「宮仕記録」によると、元禄4年12月に、「9日、能悦坊より、大絵馬を掛けられるので、足場の道具[はしごのようなもの?]を松梅院で借りられた」と書かれています。この「大絵馬」が今掛かっている写真の絵馬になるのでしょう。
 
 さて、ひときわ目立つのが、この絵馬です。

北野天満宮

 強力の山伏が法力で船を投げ飛ばしている。脇には若侍が一人。この構図を見て直観的に想起するのは、やはり「牛若丸と弁慶」ですね。
 ところが、調べてみると違うのでした。


 阿新の物語

 絵の若者は「阿新」、「くまわか」といいます。南北朝時代の人で、公家・日野資朝の子です。
 父の資朝は後醍醐天皇に取り立てられましたが、天皇の討幕計画の露見により、自らも佐渡へ流されました(いわゆる正中の変)。子の阿新は、父に会うため佐渡に向かいますが、守護・本間入道は面会を許さず、逆に資朝を斬ってしまいます。父の敵討ちを誓った阿新は、本間の屋敷に潜入しますが、敵は不在で果たせず、代わりに父を斬った入道の嫡子・本間三郎を討ちます。
 しかし、阿新は追っ手に迫られ危機一髪。かろうじて逃れ、湊へ向かう途中、年老いた山伏と出会います。ちょうど一艘の船が湊を出ようとしており、山伏は法力で逆風を起こして船を湊へ引き戻します。阿新は、無事に乗船して越後に脱出するのでした。

 これが「太平記」などに見える阿新の物語です。彼は、のちに日野邦光(国光)と名乗り、父と同じく後醍醐天皇に仕えたそうです。
 
 お分かりでしょう。絵に描かれた場面は、佐渡を脱出する阿新と山伏(大膳坊ともいう)を画いたもの。すでに出帆した船を法力で引き戻す山伏を力強く描いています。

 画面をよく見ると、「延享四歳 丁卯 正月」とありますので、1747年の制作です。絵師については「光政画」とあるように見えます。宮仕の能也の奉納です。
 
 ところで、なぜこのような絵馬が奉納されたのでしょうか。江戸時代になると、太平記読みによって「太平記」の物語が人口に膾炙し、また阿新の話は謡曲「壇風」として知られていました(阿新は梅若、山伏は帥の阿闍梨(そつのあじゃり)となっています)。現在の私たちは、この物語をほとんど知らないのですが、江戸時代の人達にとっては割合ポピュラーだったともいえるでしょう。
 神社では謡(うたい)が奉納されることが多々あったので、この絵馬も奉納謡にかかわって掛けられたものとも推測できるでしょう。

 絵馬ひとつとっても、いろんな物語が秘められていて愉しいですね。
 
 それにしても、現代人と近世の人々との大きな文化のギャップ。「太平記」や謡曲といってもピンと来ない現代っ子の私は、少し反省させられたのでした。



 北野天満宮絵馬所

 *所在:京都市上京区馬喰町
 *拝観:境内自由
 *交通:市バス北野天満宮前下車、すぐ



 【参考文献】
 『北野天満宮史料 宮仕記録 続一・二』北野天満宮、2006~07年
 「都名所図会」(『新修京都叢書』6、臨川書店、1967年)
 『京都御役所向大概覚書』清文堂出版、1973年
 『日本の古典を読む16 太平記』小学館、2008年
 高原美忠『八坂神社』学生社、1972年




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