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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS朝日「京都ぶらり歴史探訪」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

臼井書房の書物たち

京都本




臼井書房


 『随筆京都』と「大黒柱」


 なにげなく、脇村義太郎『東西書肆街考』(岩波新書)をパラパラ見ていました。
 書肆(しょし)とは、本屋さんの古風な言い方ですね。

 東西書肆街考

 そのなかに、次のような記述がありました。

 昭和十四年に、臼井喜之介が数年勤めていた出版社星野書店をやめ、独立して京大北門前にウスイ書房(のちに臼井書房とあらためた)を開いた。小売のかたわら出版をやり、詩の雑誌を出したりしていた。処女出版『随筆京都』(昭和十六年)は大いに売れた。戦争となって応召し、後は夫人の手で続けていたが、雑誌は統合され、小売は次第に続けることが困難となって、営業を中止したかたちで終戦を迎えた。(48ページ)

 そう言われれば、臼井書房という名はよく見掛けるし、『随筆京都』も持っています。

臼井書房
  『随筆京都』の題簽

 この本は、昭和16年(1941)11月に刊行されたので、太平洋戦争の開戦直前になります。発行所は「ウスヰ書房」となっており、北白川京大北門前とあります。発行者は「臼井喜之介」。住所は、左京区北白川追分町87。
 京都ゆかりの文化人ら58名の随筆を収めています。歴史家・魚澄惣五郎、建築家・岸田日出刀、作家・近松秋江、法学者・松波仁一郎、釣魚家・佐藤惣之助、俳人・荻原井泉水、建築史家・天沼俊一、国文学者・澤瀉久孝、歌人・吉井勇など、バラエティーに富む人選です。

 その最末尾に、臼井喜之介自身も「京都的といふこと」という短文を寄せています。
 「京都的」とは、京都に対して感じる一種のニュアンス、であるとし、京都のもつ歴史、伝統が、「故旧をなつかしむ気持」を起させるのであろうと述べています。

 臼井喜之介は、そこにも書いているように、京都に生まれ育った詩人で、第一詩集は『ともしびの歌』でした。丸山薫による、その序文には「臼井喜之介は京都に住んでゐる。京都の町が半ば仄(ほの)ぐらい因襲の廂の下にあるやうに、臼井喜之介にもそんな影の世界がある。彼はそこに生活(くら)し、詩を灯して四辺を照らし、懐かしんでゐる。さればこそ、彼の詩を浸すあの油のやうな情緒が培はれてきたのだらう」と記されているそうです。

 多くの人が「京都的」なものを感じる臼井の詩は、「大黒柱」という詩だといいます。(368-369ページ)

 うへの方に
 古ぼけた時計が かかつて居り
 もたれかかると
 冷つこい肌ざはりがして
 きしかたの ながい匂ひがする
 ありがたい木目のいろが
 ことしも お祭の神燈に つやつやと黒びかりして
 づつしりとおもい 大黒柱
 おほ祖母がふき 祖母が拭き 母のいままで
 いくめぐりの秋冬を
 じつと この土間に 冷えつづけてきたらう
 寄ると
 さみしく 顔がうつる



 臼井書房の本たち

 私が持っている臼井書房の本をざっとあげると、

 臼井喜之介編『随筆京都』1941年
 天沼俊一『日本古建築行脚』1942年
 美術史学会『別尊京都仏像図説』1943年
 川勝政太郎『京都古蹟行脚』1947年

 などがあります。

 出版社名には変遷があり、『随筆京都』は「ウスヰ書房」、『古建築行脚』は「臼井書房」と漢字表記に。『仏像図説』は、奥付は「臼井書房」なのに、表紙は「一條書房」刊となっていて、戦時中の出版社の統合を示しています。
 戦後は臼井書房に戻りますが、昭和25年(1950)からは白川書院となります。

 『東西書肆街考』は、次のように記しています。

 白川書院は、臼井喜之介が昭和二十五年に雑誌『京都』を創刊する時、臼井書房を改称したものであり、『京都』は一時『京都と東京』と改題したこともあったが、数年前『京都』に復し、京都ブームに乗り、臼井が逝った後も夫人・令息などで経営を続け、三百号記念号を出した。戦後、混乱の中で大仏次郎が京都ブームの種を蒔き、臼井が『京都』でこれを育て支えてきたというべきであろう。(67ページ)
 
 ご承知の通り、白川書院の「月刊京都」は現在も発行され続けています。

 臼井書房
 川勝政太郎『京都古蹟行脚』


 天沼俊一『日本古建築行脚』

 天沼俊一博士は、私の敬愛する建築史家ですが、戦時中の昭和17年(1942)に臼井書房から『日本古建築行脚』を上梓しています。

 臼井書房

 この本は、京都を離れて全国の古建築を文字通り行脚したもので、鶴林寺(兵庫)、高野山(和歌山)、厳島神社(広島)に始まり、「北陸の旅」や「岐阜愛知紀行」などを収載します。
 多くの文章が調査日記風に書かれていて、いつ、どこに、誰と行ったかが書かれていておもしろいのですが、S博士とかT老とかM師とかN氏とかO君とか、とにかく誰のことやら分からず、難解なクイズのようにも読めます。

 そのはしがきには、次のように記されています。

 昭和十六年夏のある日、臼井書房主人来訪、日本の古建築に関する一書出版の希望を述べられたので、予て考へてゐた通り、其若干に就いて紀行と稍々専門的記載とを兼ねたものを試みる事にした。(1ページ)

 臼井書房


 昭和16年(1941)夏、臼井喜之介は、京都帝大を退官していた天沼に出版の依頼を行ったのでした。その数か月後に刊行された『随筆京都』の末尾には、同書の近刊予告が出されています。

 工学博士 天沼俊一著
 日本古建築行脚

 著者は言ふまでもなく我が国建築史の泰斗、本書は著者自らカメラを下げて日本全国を実地に踏査された積年の研究の集績である。尚古図新、古典新生の世代に古建築の研究はやうやく盛大ならんとしつつあるが、本書はそのもつとも権威ある指針となるであらう、古建築行脚案内と専門的な研究紹介、その二つを併せ保つ本書はけだし江湖渇望の書であらう。


 出来上がった書物は、確かに紀行と専門的解説をミックスしたような風変りな味わいで、天沼俊一の人間味もうかがえて、おもしろいものです。


 牛のマーク

 その臼井書房のマークは牛でした。

 臼井書房

 上の写真は戦後すぐの『京都古蹟行脚」のもの、冒頭の写真は昭和16年(1941)刊『随筆京都』の印紙です。

 これを見て、やはり思われるでしょうか、ラスコーの壁画かな、と。

 その証拠は見付けていないのですが、ラスコー壁画の発見は昭和15年(1940)ですし、詩人の臼井喜之介が、それをマークに選んだとしても変ではないと思います。
 このあたりは、もう少し調べてみましょう。

 さらに、『日本古建築行脚』の函にあるマーク。

 臼井書房

 これは乳牛か何かを前から見た絵ですね。
 四角くマーク風に函にプリントしてあります。ちょっとした遊び心でしょうか。

 臼井書房と臼井喜之介。京都の出版文化を支えた一人として、興味深いものがあって、もっと知りたい気がしてきました。




 【参考文献】
 脇村義太郎『東西書肆街考』岩波新書(黄87)、1979年
 臼井喜之介編『随筆京都』ウスヰ書房、1941年
 天沼俊一『日本古建築行脚』臼井書房、1942年
 美術史学会『別尊京都仏像図説』臼井書房(一條書房)、1943年
 川勝政太郎『京都古蹟行脚』臼井書房、1947年
 

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