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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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“畑の姥” の驚異的頭上運搬術!

洛西




『日本地理大系』よりはたの姥


 畑の姥の運搬術

 京都の人にとって、懐かしい言葉のひとつに「ショウギ」というものがあります。
 もちろん、「将棋」ではなく「床几」と書きます。

 辞書的には、戦国武将が戦陣などで用いる、脚がX形になった折畳み式椅子もありますが、京都でいうのは細長い腰掛け台です。歌舞伎や時代劇の茶店で、お茶をすすっている、あの緋毛氈などを掛けた台です。東日本では「縁台」というのでしょうか。
 これは実に日本的なものらしく、あるテレビ番組で外国の方がその便利さに驚いていました。椅子なのにテーブルにもなる一石二鳥の存在。それが珍しいようでした。

 京都では、家の前にポンと出して使っていて、別に毛氈など掛けることもなく、木の肌のままです。私が住む地域では、今は地蔵盆の時にこれを出してきます。数十年使っていても、しっかりしています。脚が抜けるタイプもあるのではないでしょうか。
 なかには、家の壁面に取り付けて、使わない時は畳んでおけるものもあって、これを「ばったり床几」というのだそうです。よく見掛けるものですが、この言葉は、私は建築史の人に聞くまで知りませんでした。

 その床几、これまでどういうふうに売り買いするかなど考えたこともなかったのですが、今回ひとつの答えが分かりました。
 前回取り上げた「大原女」。その仲間のひとつである「畑のおば」が、床几を行商していたというのです。その写真が、これです。

 『日本地理大系』よりはたの姥
 『日本地理大系』より「はたの姥」

 畑の姥(はたのおば)。
 京都の西郊、紅葉の名所・高雄方面から行商に来る女性の称です。

 写真は、昭和4年(1929)に刊行された『日本地理大系 近畿篇』掲載のもの。キャプションには、

 はたの姥
 洛西梅ケ畑方面から出る女で梯子[はしご]、床几[しょうぎ]、鞍懸[くらかけ]を売りに出る。衣服は縞や絣木綿、脚絆[きゃはん]手甲[てっこう]、冬は黒、夏は白、三幅前垂は後合せ(他は右脇合せ)冬は裁着(方言かあらん[方言だろうか])を衣服の上に履く。髷[まげ]の上に藁[わら]の輪(髷ばといふ)を置き何んな重い物でも載せる。売声は「梯子や鞍懸いらんかいな」(69ページ)


 風俗研究の大家として知られる江馬務の解説です。「鞍懸」とは、踏み台(足継ぎ)のこと。

 梅ケ畑から来るから「畑の姥」なのでしょう。
 高雄から周山方面にかけての中川、小野郷、梅ケ畑などは北山杉の産地です。そのため、畑の姥の行商品も木製品でした。
 高雄女(たかおめ)とも呼ばれる畑の姥は、前回紹介した『日本百科大辞典』によれば24貫の重荷も頭上に載せると記されています。24貫といえば、約90㎏! 信じがたい数字ですが、上の写真を見れば誇張でないことが理解できるでしょう。
 写真の女性は、前後に長くハシゴを載せ、その上の中央に床几をひっくり返して据え、その上と前後に1つずつ鞍懸を置いています。バランスが崩れないように細ひもを掛けて両手で握っています。その右手にも、鞍懸を1つ持っています。つまり、ハシゴ1、床几1、鞍懸4を運んでいるのです!!
 これだけあれば90㎏くらいはあるかも知れません。

『日本地理大系』より高雄女
 高雄女 清滝川に架かる高雄橋にて(『日本地理大系』)


 北白川の石売り

 江戸時代の京都の女性の職業はさまざまありますが、安国良一氏の研究によると、例えば次のようなものがありました。

 *柴売り(八瀬)
 *石売り(北白川)
 *黒木売り(鞍馬)
 *炭持ち(鞍馬)
 ・茶摘み(宇治)
 ・人形売り(稲荷)
 ・扇折(御影堂)
 ・団扇屋(深草)
 ・絹屋(西陣)
 ・張物屋(蛸薬師通)
 ・八百屋(錦小路通)

 このうち上の4つ(*印)は、行商です。
 なかでも興味深いのが「石売り」でしょう。北白川は、花崗岩の石材「白川石」の産地でした。「都名所図会」巻3(1780年)にも、「北白川の里人ハ石工[いしきり]を業として常に山に入りて石を切出し灯籠、手水鉢、其外さまざまのものを作りて商[あきなふ]也」とあります。

 その図。

「都名所図会」より北白川
 「都名所図会」より「北白川」

「都名所図会」より北白川

 山中越の路傍の岩崖に登り、槌を振って石材を切り出します。
 ところが、図をよく見ると、中央下にこんな人馬が描かれているのです。

「都名所図会」より北白川

 まさに、石売り女!

 馬の背に石を結わえて、都へ向かっています。前回紹介した大原女と同じで、京へ至るまでは運搬に馬を利用するわけです。
 でも、そこで考えてしまうのです。都に着いたら頭の上に石を載せて売り歩くのだろうか、と。
 今のところ、その答えは分かりませんが、畑の姥の例からすると、重い石を籠に入れて頭に載せる……などという芸当を出来る女性がいたような気がしてなりません。


 白河女の昼食

 『日本地理大系』には、白河女についての珍しい写真が掲載されているので、紹介しておきましょう。

『日本地理大系』より白河女の台所
 『日本地理大系』より「白川農家の台所」

『日本地理大系』より白河女の昼飯
 同「白川女昼飯」

 白河女に対する、あくなき関心が表れていて、ちょっとおかしいくらいです。
 江馬務による解説文を抜粋しておきましょう。まず、上の写真から。

 白川農家の台所
 洛北北白川の台所の庭は広く取られてゐて、(中略)その庭の一方に偏つて走り元があり、炊事、調理をするようになつてゐる。(中略)横には必ず井戸がある。井桁に石もある。白川の婦人は、その特殊な姿のままで炊事調理をするのである。(67ページ)


 「走り」は、流しの意味です。
 昭和初期の写真ですので、もちろん立って調理していますが、右の女性が「走り」の上で何かを切っており、左の女性が井戸で水を汲んでいます。
 走りの右には、大きな作り付けの棚があって、このような雰囲気は市街の町家と同じですね。

 では、下の写真のキャプションです。

 白川女昼飯
 (前略)庭の中央に竈[かまど]を置き、上に釜と鍋を五箇所備へ、釜の中、大釜といつて一つは別に大きい。その釜の上に花と神へ供へる御飯とを置く。花は毎月一日は松とし別にお灯明を供へる。これ[ママ]竈を荒神といつて祀るのである。
 御昼飯は主人などが外へ働きに出てゐるから、写真のやうに竈を台にして寂しく御飯を戴く。竈の横には竈の棹といつて物干竿[ものほしざお]があり、之に布巾などをかける。これ等は総て古来の伝統の然らしめる所である。(67ページ)


 写真の一番奥が「大釜」でしょう。
 私の母の実家(京都市内の農家)でも、台所に仏さんの御飯を金物の高坏のような器に入れて供えていました。
 カマドで昼食を取るのが寂しいかは別にして、戦前ではおおむねこんな感じだったろうとうなずけます。

 こちらは、白河女の風俗を示した写真です。

 『日本地理大系』より白河女
 『日本地理大系』より「白河女」

 花売りの女性で、衣服は紺絣、前垂も同じで、帯は縞もの、白い腰巻を見せています。
 手拭には町名を染め抜くそうで、確かに何やら文字が見えています。
 売り声は「花いりまへんか」。


 賀茂の女
 
 『日本地理大系』より賀茂の女
 『日本地理大系』より「賀茂の女」

 こちらは、単に「賀茂の女」と記された写真。
 つまりは、上賀茂や下鴨の女性で、野菜の行商です。いわゆる振り売りで、南京などを入れているよう。

 着衣や前垂は紺絣、帯が木綿の浅黄か縮。衣服はからげない(つまり白い腰巻が見えない)ので、やや地味な印象です。
 上賀茂は、今でも賀茂ナスや漬物「すぐき」で有名ですが、都市近郊の蔬菜栽培を行ってきた地域でした。


 最後に、再び大原女

 改めて、同書に掲載された大原女の写真を見ておきましょう。

 『日本地理大系』より大原女
 『日本地理大系』より「大原女風俗」

 なんとカラーです。こうなると、民俗学的な色彩は薄れ、観光資源の趣きですね。

 『日本地理大系』より大原女
 『日本地理大系』より「八瀬口にて」

(前略)重い薪の束を頭上に戴き花の枝を折り添へて「黒木召せ」と呼び歩き京の名物となつた。この姿は昔阿波内侍が建礼門院に仕へ侍りし時、山に柴を刈りに出た哀れ深き姿である。然し八瀬大原の女は決して絵のやうな手弱女ではなく、腕力体格男児に劣らず、薪を満載して往復四十粁[キロ]の山路を日帰りする。(後略) (66ページ)
 
 解説とともに、この写真を見ると、「大原女」というイメージを破る力強い女性の姿が浮かび上がってきます。

 最後に、この一枚。

 『日本地理大系』より大原女
 『日本地理大系』より「大原女」

 二人の大原女ですが、右の女性は、前回紹介した写真の女性と同じと思いませんか?

 『日本案内記 近畿篇上』より大原女
 前回紹介した『日本案内記』の大原女

 背景、路面等までよく見ると、まったく同じ時に撮影したものと察せられます。
 鉄道省『日本案内記 近畿篇上』は昭和7年(1932)刊ですから、改造社版『日本地理大系』(昭和4年=1929)が先に発刊されたことになります。すると、『日本案内記』が改造社から写真を借用したのか、それとも第三の撮影者がいて、どちらもそこから提供を受けたか、ということになります。
 そのあたりはよく分かりませんが、他の書籍などを探ってみると、もっと彼女が登場しているかも知れません。

 このように、人気の高かった行商の女性たちも、戦後は徐々に姿を消していくことになります。
 昭和42年(1967)刊の『近畿の観光地理』には、このように触れられています。(適宜改行しました)

 北白川といえば思い出されるのが、花売りの白川女であろう。近郊農業の特色として北白川の畑地では花がさかんに栽培され、三幅前垂に手甲脚絆、頭に大きなかごを乗せた花売娘が町から町へ花を売り歩いたものであった。
 しかし、宅地化が進むにつれ、今では花畑をみつけることすら困難になってきた。したがって白川女が得意先へ届ける花は主として南志賀、大津方面から仕入れたものである。
 頭にかごをのせる風俗ももはやみられなくなった。リヤカーを引いて町へ出かける彼女たちの中に若い女性はもうみられない。老人の完全な内職となってしまった。(54ページ)


 戦後わずか20年。高度経済成長の社会変化の中で、古い伝統も変容を余儀なくされたのでした。




 【参考文献】
 「都名所図会」1780年
 『日本百科大辞典』第2巻、三省堂書店、1909年
 『日本地理大系 7 近畿篇』改造社、1929年
 『日本案内記 近畿篇 上』博文館、1932年
 藤岡謙二郎ほか編『近畿の観光地理』地人書房、1967年
 安国良一「近世京都の庶民女性」(『日本女性生活史 3 近世』東京大学出版会、1990年所収)



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